求道blog

武藤義一『仏眼』

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年9月1日

読了。
武藤義一と三人の仏教者による対談集。
大森曹玄の対談が収録されているのに惹かれて読んでみましたが、ほかのお二人の対談もとても味わい深いものでした。

目次をあげておきます。

山の自然とともに(山本秀順)
・物だけで幸福になれないか
・ほんとうの愛情って何だろう
・人間の命は天地自然のおかげ
・お経は身体で読むもの
・精神現象の不思議
(コメント)
不殺生戒についてなんとなく分かった気になれます。”そっとしておく愛情”ということばが印象的。

梵鐘の響きの中で(山田霊林)
・息をしなければ死んでしまう
・面授の法門こそ大事
・修行は音で始まり音で終わる
・永平寺は冬がいちばんいい
・少年のころの思い出
・道元禅師の教え

あるがままの姿で(大森曹玄)
・青年と宗教
・坐禅をしなくてもさとれる
・禅の公案と悟り
・禅と武士道
・山岡鉄舟の禅修行
・科学者と仏教

読み返してみて、山田禅師の修業時代のくだりが心に残ります。師弟のありかた、とくに師とはどうあるべきか。
仏具が整然と並べられていないといっては怒鳴られ、歩く姿がしゃんとしてないといっては殴り倒される。そして怒り方も、弟子が納得のいく形などでは全然なく、なぜ怒られているかすら分からないような(弟子からすれば理不尽な)ものだったといいます。

今のわれわれにとってはわれわれの”常識”からすると、いわゆるトンデモナイ教育法だと思います。あきらかに”体罰”ですから。しかしながら、体罰を用いずに、かつ教えられる側が「なぜ叱られているのか」を納得できる形で行うのが教育の理想型かといえば必ずしもそうとは言えないような気がします。人を教え導くにあたって教育方法は副次的なものでななかろうか、師の側にそもそも弟子に対する愛情と責任感があるのか否かが第一義の問題ではなかろうか、と私のような教育の素人は思います。

山田禅師はのちに、人知れず禅師の身体安全のために願かけをし、また「こうしておけば霊林の時代になったころには、これがためになるからな」と唱えながら寺の裏山に植林していた師の密やかな愛情を知って絶句します。このくだりを読むときには私も涙腺が緩むのを拒めませんでした。

人生の根本義とは何かを考えさせられる良書でした。対談形式でもありとても読みやすい本でもあります。

汚い泥があればこそ、きれいな紅蓮華も白蓮華も咲く。それを蓮華の花だけを喜んで、清水の中へ突っ込んだら枯れてしまう

いまの愛情のかたちは、人の喜ぶような表現をした裏で、人のいやがることは心の中に隠したまま憎む

(山田霊林)

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