求道blog

戦後民主主義教育と愛国心

Posted in 教育 by UBSGW on 2006年9月6日

自由主義・民主主義がよしとされれば、その美点のみに目を向けて欠点というのか危険性というのかそうした点には思い至らずに盲目的にこれを讃美し、そうかとおもえば今度はいざその欠点が露わになり始めると反動的に規範・規律の重視に走る。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというわけでもなかろうが、このような、極端から極端へはしるという傾向は戦前・戦後を問わず変わらない日本人の悪い癖なのだろうか。

たしかに、規範・規律の遵守という題目そのものはいちおう是とされるべきであろう。ではなぜ”一応”なのか。少し考えてみたい。

いきなり極端な例ではあるが、かつてナチスは「法令を遵守して」ユダヤ人をはじめとする”異民族”その他(例:精神薄弱者)を合法的に殺害した。国会において適正な手続に則って各種法令が制定され、行政の任にあたる公務員はそれを忠実に実行し、司法に携わる者はその非人道的な所業に異を唱えることはなかった。(もちろん一般市民の反ユダヤ感情も存在していたわけだが、それについては今は述べない。)

自国の市民を殺害するという蛮行は、手続き上は何らの瑕疵もなかったということになっている。そして対象者の移送・殺害という一連の行為が極めて合理的・系統的すなわち「合法的に」行われたところに、(偶発的な大量虐殺とは異なる)ナチ・ホロコーストの特異な徴がある、と言われている。

こうした歴史的事実からは、あらゆる場合に規範・規律の遵守が是とされうるわけではないこと、少なくとも人が人として「人間的」であろうとするならば、人間的であろうとするその意思が規律・規範を守ることとは両立し得ない場合があるということを読み取ることができる。

そこで必要になってくるのは規範・規律の”実質”を吟味することであろうと思う。「きまりは守りましょう」という言辞はいちおう正しいと言えるが、それだけでは諸刃の剣となる。

戦後民主主義教育の問題点は、民主主義あるいは平等や権利を教えるにあたって、その実質を吟味することなくあたかもそれが自明のものとして教えるのみで、平等や権利という観念が諸刃の剣であることを看過してしまったところにあるのではないだろうか。そして、実質の吟味を置き去りにしたという点でそれは戦前の国粋主義教育と同質のものであって、つまるところ、戦前・戦後の教育は外皮のみが異なるだけで中身というか心性そのものは些かも変化していなかったとも言えるのではないだろうか。与えられた教えを何の疑問も持たず無条件に正しいものとして受け入れることの怖さがここにあるように思われてならない。”滅私奉公””民主主義””愛国心”。そのどれも決して誤りではない。はたして個人が自由であることと社会秩序の維持はどのようにして両立されうるのであろうか。

思うにそれは既に自明のものとして受動的に教えられるよりも、ひとひびとりの人間が主体的に考えることを要求している。そして「主体的に」考えること・行動することは、”教えられる”ことの対極に位置するものである。とすると、「主体的に考えることができるように教育する」「国家(郷土)を愛することを学ばせる」などという言葉は時として言語矛盾もはなはだしいのかもしれない。そもそも愛するという行為は、私的かつ主体的なものの極みであろうから・・・。

今のわれわれに必要なのは、答えがすぐには出ないであろうことを覚悟の上で、それでも自らの頭で物事を吟味してみるという”主体性”なのかもしれない。

以上、本の内容と直接的には関わりませんが、下の本を読みながら考えたことをちょっとまとめてみました。

(2006年12月13日一部改稿)
(2010年3月25日一部改稿—主に段落構成の変更)

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