求道blog

敬語の細分化

Posted in 社会 by UBSGW on 2006年10月3日

先日来の報道によると、政府は敬語の性質を厳密に分類することで日本語の乱れを防ぐつもりだそうです。しかし私は、「敬語の性質を厳密に分類することで、使い方の混乱を防ぐ」というのは的外れだという気がします。その理由を簡単に言えばこういう事です。
「はたして「24色入りの絵の具を持っている子供」のほうが「12色入りの絵の具しか持たない子供」よりも上手な絵が描けるものだろうか?」

もちろん、いろいろと敬語に限らず試行錯誤することは非難すべくもないですが、道具立てよりも前にもっと考え直すべきものがあるような気がします。

文明が成熟してゐれば街談巷語は正されるしむしろ逆に、平談俗語が社会の性格をしやんとさせる事態さへあり得るだらう。

 
丸谷才一『文章読本』

もしかしたら、審議会とやらを開く以上はなにがしかの結論を得なければならないということがあるのだすれば、いまさら言葉の乱れの是正に大して効果があるとは思えない細分化案が出てきたことも腑に落ちなくもないです。

と、そんなことどもを漫ろ心に考えていたら朝刊にこんな記事を見つけました。「メディアと民主主義」というシンポジウムに関する記事です。

興味のある分野だけを知りたがる人が増え、新聞で思考力を磨こうとする意識がなくなってきている(加藤千洋朝日新聞編集委員)

「新聞で思考力を磨く」だって??
「新聞を素材として(ネタにして)思考力・批判力を磨く」ならまだ分りますがね。まさかとは思いますが、この朝日の編集委員は新聞がそれほど大したものだと考えて居るんでしょうかね。まぁ、字数の制約やらもあるんでしょうから、揚げ足取りみたいなことはやめますが。しかし、文脈からしてなにか尊大な印象を受けましたよ。国語に関して言えば、当の新聞にしてからが、明晰性にかける文章や「んっ!?」と感じる表現が散見されることは恐らく当事者である新聞社の人間が一番よく承知しているはずです。分っていても印刷物として一旦出荷されてしまえばもう引っ込められないですから。

印刷物の信用度(というよりも正確には通用度、世間的な信用度と言うべきか)は内容そのものよりもまずはその外見に大きく左右されると私は考えています。

  1. 手書きより印刷
  2. 粗い活字よりも美しい活字
  3. 紙質の高低
  4. 装幀の堅固さ・美しさ
  5. 発行部数の多寡
  6. 発行母体の知名度
  7. その他もろもろ

要は”金のかかる”メディアであればあるほど信用度が高まる。それはおそらく「これほどまでに大金を投じて(作為を弄して)嘘をつく者はまさかいないだろう」「ここまで費用をかけてるんだからまさか嘘ではなかろう」という世間一般の(善人であれば)持つ前時代的感覚に相応しているのではないだろうか。
(またまた話が見えなくなってきました・・・)

とどのつまり、新聞は比較的まともだとしても、ともかくメディアをつうじて誤った言葉・言い回しがこれでもかこれでもかと垂れ流される現状を変えなければ、敬語の分類を増やそうが減らそうが全く無意味だという気がしてなりません。
書きたかったのはただ一言。上に記した丸谷さんの言葉でした。今日はまさに書き散らし。御免下さい。

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