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丸谷才一『文章読本』~敬語細分化その2

Posted in 社会 by UBSGW on 2006年10月4日

先日書いた敬語細分化に関するエントリの続編としてもう少し。

この一世紀の日本は、伝統の否定をはなはだ大がかりに実験したのである。(中略)型の排撃とは、何のことはない、今出来の粗悪な型で我慢することの謂にほかならなかつた。(中略)口語文が貧弱なのは現代日本文明が劣悪なことの結果である。

丸谷才一『文章読本』
近代の日本は西洋技術文明を殖産興業・富国強兵を果たすためにのみ導入したつもりであったにもかかわらず、いつのまにか欧米的な価値観をも無批判に取り入れ始め、第二次大戦の敗戦がそれをさらに加速した。そんな気がします。欧米列強のアジア進出という脅威を面前に控えた危機的状況を考えれば、当時の日本人が性急に外来文明との同化を図ろうとしたことを非難することは酷なことのようにも思えますし、また、敗戦の衝撃が日本人の自信と誇りを叩きのめしたことも疑うに足りません。

しかしながら、過去の失敗から何一つ学ばないとすれば日本は今後も同じ過ちを繰り返し続けるのではないだろうか。一世紀半の間に日本が犯した過ちとは、自己が犯した過ちの本質を突きつめて考えることをせずに、右から左へ左から右へと文字通り右往左往したところにあったのではないだろうか。そして戦後体制からの脱却を自称しだした現在の日本は、その過ちをさらなる(そして本質的には同じ)過ちで塗り替えようとしているだけではないだろうか。

昨今、”歴史””伝統”という言葉が今までとは異なった文脈で用いられることが多くなってきたように思います。この本の出版は1979年、丸谷さんは明治維新以後の日本の特質を「型や伝統の否定」と看破しています。

ほんの数年前まで、”個性の重視”だの”ゆとり教育”だのとあっちでもこっちでもさかんに言われていたような覚えがありますが、最近は”秩序””規範”が決まり文句みたいです。
どれも正しい。しかしそのどれも完全ではあり得ない。
というのが私の実感です。

個人が尊重されると同時に集団内の秩序を維持する、という問題は古くて新しいものなのでしょう。そしてこの問題は”こうすればこうなる”式の単純素朴なものではないはずです。
(ん~、あやふやな考えを文章にすることが面倒になってきました)
最後に引用。

口語文の未熟はたしかにわれわれの生き方の反映にちがひないが、しかし、口語文を成熟させることはわれわれの生き方を豊かなものに改めてくれるはずである。文章が人間の精神の最も基本的な表現である以上、さういう期待と信頼を寄せることは充分に正しいだらう。

敬語の細分化、そのこと自体を否定はしません。ただ、この件に限らず、最近の様々な論調に独善的、といって悪ければ余裕のなさ・遊び心のなさを感じることが多いのは私の僻目なのでしょうか。
「そもそも遊びじゃないんだよ、ゴラぁ!」
なんて言われてしまいますかね・・・。
ヒステリックで独善的な物言いはいつの時代でもどんなところでもイヤなもんです(某国のテレビアナウンサーの口調はその典型かも)。特にその主張に些かなりとも正当性が”ありそうに見える”ときには始末に負えません。(これって私たちの日常でもよく見聞きすると思いますが、違います!?)
しかしまぁ、つまるところは「汝自身を知れ」かも・・・。

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