求道blog

ジャーナリストはかくあるべし

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2006年10月10日

昨日付の西日本新聞朝刊で読んだ記事(「写真だけ撮って帰る群れ」 仏紙に邦人旅行批判
)です。

事の直接の発端は仏紙フィガロに掲載された新聞記事。

「日本人の群れはパリから昼前に着いて、そそくさと2つの奇岩の写真だけ撮る。そして帰る前に、お土産や体のマッサージに使うため、禁じられているのに海岸の小石を拾う」
・・・・・・・
「(日本人が多い)ピーク時には、別荘の人たちは庭の奥深くに避難する」

私はフィガロの原記事を読んでいませんけれど、この部分を読んだだけでも、日本人観光客に批判的な内容であったことが彷彿としてきます。

この記事が掲載されたあと、パリ日本語ガイド協会が

フィガロ紙とエトルタ市、エトルタ観光協会に「記事は事実誤認で偏見に満ちている」とする抗議の手紙を送った

フィガロ紙の返答はなかったそうですが、

取材に対し記事を書いた記者は「取材相手の言うことをそのまま書いた。日本人を傷つけたなら謝りたい」と話した

とあります。

エトルタ市観光局長も

「観光しか産業のない市にとって、日本人は大切なお客さん。これまでトラブルはなく、夏だけ別荘に来る人が言ったことを記者がうのみにしたのだろう。」

読みながら、ここのところはとても大切なことだと実感しました。

フィガロ紙が(同紙記者も認める如く)取材源から得た情報(言葉)を無批判に掲載しているのにたいして、西日本新聞記者は、ガイド協会からの抗議に返答しなかったフィガロ紙記者に取材して「取材相手の言うことをそのまま書いた」という事実を新たに引き出してこの記事を書いたわけです。

ここには、どちらもジャーナリストではある両者の事実に向き合う姿勢の違いが如実に浮き出ています。私なぞ思わず西日本の記者に拍手を送りたくなりましたよ。(ただし、両者の記者としての資質の違いだとは思いませんけれどね。)

さらに記事は

「せっかくエトルタまで来たのだから、本当はもっとゆっくりしてほしい」

というエトルタ市観光局長の本音を引き出し、日本人旅行客の観光形態の変化にも言及した上で、

年に最低2週間、最高4週間の連続休暇をとる権利が保証されたフランスと、平均連続休暇が7.7日(2005年)の日本社会の差が、両国民のバカンスや旅に対する意識の違いにあらわれているのは確かなようだ。

と結んで今回の事件から記者が何を読みとったかを示唆しています。

情報を収集しながらもそれを鵜呑みにせずきちんと吟味し、裏を取り、第三者の見方(評価)も交えながら最後に自分なりの結論を示す。

これって本来あるべきジャーナリストの基本姿勢だと思います。
しかしこの当然の基本姿勢が、「不偏不党」だとか「公平中立」「事実報道」などの名の下に忘れられがちなのが現状のような気がします。

もしジャーナリストが自分なりの結論づけ・意見表明をしないとすれば、それはジャーナリストとしての職業倫理にもとづくものではなく(つまり不偏不党などではなく)、不偏不党と称してジャーナリストとしての使命を置き去りにしているだけだと思います。

「事実を伝える」という義務は、たとえば、役所の発表を生のままで紙面に掲載することで一応は果たせます。あるいは「誰それがこう言った」ということでも果たせます。
「役所が○○と言った」
「誰それが○○と言った」
確かにこれも”事実”には違いありません。
そして、そうした”事実””○○”の部分ががメディアを経由することによって信憑性を獲得します。

もし、メディアやジャーナリストがこのレベルの「事実の追求」にとどまることで満足するのなら、それは第三の権力としてのマスコミではない、単なる広報機関・拡声器であることで満足するということではないでしょうか。
それでは「役所の広報活動の民間委託は、小泉さんの規制緩和以前から行われていた由緒正しき伝統あるものだよ、キミ」と皮肉られかねません。

事実の裏に隠されたさらなる事実を追究すること、この繰り返しこそがジャーナリストの使命ではなかろうか。

もちろんこうした姿勢は一般市民にもあるに越したことはないでしょうが、市民は事実を追究するより先にやらねばならぬことがありますしね。やはり”分業”でいくしかないでしょうね。

ちょっと時間が無くなりました。
機会があればこの件についてはまた書いてみます。

P.S.
「追究」と「追求」、これら二つの言葉の意味の違いは今のジャーナリズムを考える上で興味深いものがあるような気がしています。
現状は”追求追及>追究”かもしれません。

広告
Tagged with:

ジャーナリストはかくあるべし はコメントを受け付けていません。