求道blog

『エンデ全集8 鏡のなかの鏡』

Posted in 教育 by UBSGW on 2006年10月19日

悪の表現自体は悪ではない。善や聖の表現自体が善や聖でないのと同じである

『エンデ全集8』解説より孫引き(ミヒャエル・エンデ「悪の像」『エンデのメモ箱』)

福岡県筑前町のいじめ自殺事件で、全校生徒に謝罪した校長先生。
「先生たちが手を抜いていた」「(彼に)プレッシャーを与えた」
しかもなぜ生徒達に謝罪するの?

「生徒達の心のケアを」
「彼を忘れない」
「頑張りましょう」

この言葉自体は決して悪くない言葉です。
今回の件で露わになったのは、綺麗事をならべる一方で生の人間即ち教師と生徒一人一人とが真剣に向き合っていない学校での日常、さらには一人の生徒の心のケアすら出来ず、やろうともしていなかった現実。

「いじめは悪だ」
「いじめをやめよう」
「勉強しよう」
「努力しよう」
「感謝しよう」
「正直であれ」
「誠実であれ」
・・・・。

そうした言葉は吐き出したそばから空っぽになってしまった。
「きみのことを思って」
「おまえのために」
「社会はそんなに甘くないぞ」
・・・・。

言葉だけで教育が出来るのならば、学校なんて必要ないでしょう。カセットテープでもCDでもネットでもいいんじゃないですか。
愛情と媚は大違い。
指導といじめは大違い。
全校生徒の前に教員全員立たせて「ごめんなさい」なんて・・・。ある種の媚に過ぎない。そうした機微すら感じ取れない人が”教師”として人を教え導けるとは思えない。少なくとも私が生徒なら嘔吐しかねない。

「黙っていても見るところはちゃんと見てるぞ」
浮ついた言葉を並べるよりもそうした態度や行動の方が幾層倍も強く生徒に思いが伝わることもあるのではないか。
もし彼にそうした気持ちが伝わっていれば彼も救われたかもしれない。もちろんそうした不器用なやり方はひょっとすると周囲やマスコミの反感・誤解を招くかも知れない。けれども「周囲の人々からどう見られるか」よりも「目の前の一人の生徒への思い」「目の前の一人の人間に伝えたいもの」を第一義に考えることこそ”生徒のため”になるのでは。口に出してしまえば空疎になってしまう言葉、敢えて口にしないからこそ伝わる真意というのもあるのではないだろうか。

この期に及んでも生徒の方に目が向かない、目を向けているポーズを取っているだけにしか見えない教師の姿には言葉を失うしかない。もっとも、世の多くの先生方は日々真剣に生徒と向き合っているはず。そのことは銘記しておきたいけれど。

ついでに、いじめたガキどもはどこへ消えた?
人権尊重?
被害者の一人のフリして人権尊重の言葉の向うに雲隠れ?

はたして誰が被害者で誰が加害者だったのか。
いじめたのが事実ならばいじめた加害者たちの実名こそ公表に価する。被害者の名ではなく。
そんなことを考えました。
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