求道blog

教育における歴史と伝統

Posted in 教育 by UBSGW on 2006年10月23日

わが国の美しい歴史と伝統をあらためて認識すべし、という言葉を耳にすることの多い昨今です。

ところで、それに類する発言などを耳にするときに、各人がおぼろげに持っているに過ぎない過去への憧憬をもとにして”歴史と伝統”の復活(?)をうたっているようにしか思えないことが多いのは私のような偏屈人だけでしょうか・・・。

少し前に古典素読の復活を!などという話も出て来たように記憶しますが、それに関して面白い文章を読みました。

或人たちは反対していわれるでしょう。文章語は単純なる意志表示の手段ではなく、それには日本国民の貴重なる伝統的精神が含まれている。文章語の廃絶はやがて国民性の廃絶であると。恐らくこれは保守主義者の拠って以て自ら守る有力な反対理由であろうと思います。

ここでいう「文章語」とは、すでに生活の中では使われることのなくなった文体という意味では”古典”と読みかえても差支えないかと思います。
ちなみにこの箇所は、普通教育においては文語体よりも口語体を重視すべし、との文脈で語られています。

さらに、

しかし私は、手段たる言語に依って国民の精神が左右されるものとは考えません。その貴重な伝統的精神は現代人の言語であるところの口語に新訳することが出来ます。現に私たちは和漢の古文を読んだり、その講義を聴いたりする時、もとの古文のままでは受用していず、それを一々現代の言語に意訳して理解しています。日本人の古代精神がすべて『古事記』や『万葉集』の言語に依るのでなければ理解が出来ないというものでない限り、今日にもなお必要だと思う古代精神は、それを自由に現代の口語に新訳して教育すれば好いのです。古文を教えないという事は決して古代精神を教えないという事にはなりません。また古文の教育は大学その他の高等教育機関において特別に施しさえすれば決して反対論者の杞憂のように廃絶するものでないと思います。

果たしてこの一文を書いたのは当時の進歩主義者か?文学や古典の価値を解しない石部金吉か?と思いきや、
与謝野晶子。

それこそ日本人ならば知らぬ者とてない詩人です。
題は「教育の民主主義化を要求す」。

彼女はこの一文の冒頭でこうも言います。

現在の教育は文部大臣と、それに属する官僚的教育者とに由って支配されている教育です。・・・私は・・・我国の教育制度を各自治体におけるそれらの教育委員の自由裁量に一任し、これまでの官僚的画一制度を破ると共に、普通高等一切の教育を国民自治の中に発達させて行きたいと思います。
(太字強調は引用者による)

この文章が書かれたのは1919年。今の私たちから見れば既に”歴史と伝統”の一部分といってよい時代でしょう。今時語られている”歴史と伝統”に含まれるかどうかは定かではありませんけれど。

歴史と伝統を軽視することは論外としても、ただただそれを美化し讃美することもまた奇妙なことのように思えます。
漠然としたイメージでしか語られない、各人に都合の良い部分だけを抜き出してきたような”歴史と伝統”についつい懐疑の目を向けたくなる私にとっては興味深い一文でした。

出典:日本語テキストイニシアチブ
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