求道blog

ユング『心理学的類型Ⅰ』

Posted in 人間心理 by UBSGW on 2006年10月26日

読了。

総じて難解であり、翻訳も逐語訳調で決して読み易いとは言えないです。

第一章で古代・中世のキリスト教神学論争(「普遍論争」など)出てきたときはちょっと挫けそうになりました・・・。つまるところ、異なる性格類型(内向型と外向型)間には共通理解が生じない(生じがたい)というような事を言いたいようですが、趣味で読む者には少しばかりつらいものがありました。

が、読むうちに何かと考えるところはありました。
何とはなかなか言い難いのですけれど。

そういえば、少年犯罪などが起こった際にマスコミではしばしばコメンテーターやら学者による犯人の心理分析(?)が放映・掲載されることがありますが、人間の心理を余りにも単純というか、機械論的に説明しているように感じることが多いのが気になります。

「あ~だからどうなって結果、こうなる」みたいな直線的な理屈で人間心理を解説されると「ほんとか~!?馬鹿言うな!」と言いたくなります。

車のエンジンみたいに

「あ~ガス欠ですね、原因は。ガソリン満タンしときましょう。80リットル入りましたから900㎞は間違いなく走れますよ!」

なんて風に人間を扱ってたら、その人どうなりますかね?

先生が生徒に

「ん、キミかまって欲しいのかな?そーかそーか。じゃ、ホラ、かまってやってるぞ~。楽しいか~?これでOKだろ!?」

むしろ、人間を(無意識のうちにでも)機械同然に見なし、取り扱うことこそが大きな問題を生む一つの原因(それでなければ背景)ではなかろうかと思ったりします。

その人にとってのガソリンは何なのか、どこにあるのか、どうすれば手にはいるのか・・・・。
その子が何を欲してるのか。積極的な関与か、消極的ながらも気長に見守られることか、全くの無関心か・・・・。

そんな風で、
人間は、げにムズかしきもの、ではなかろうか。

「もしはっきりした結果(効果)が出なくても、それはそれでやむなし」という姿勢が求められるのが人間(の心)相手の働きかけのような気がします。

しばし話が逸れますが、
教育など(犯罪捜査なども?)、人間の心そのものに関わる業務において”数値目標”なぞ設定するのは全く愚の骨頂だと思ってしまいます。
成果を明確に設定・判定する手段として数値目標は優れているのかもしれませんが。分かり易いからってそれにまるきり頼っていたら必ず何処か別の所に歪みがくるはず。数値化ってのは言葉変えれば単純化とも言えるわけでしょ!?

30センチ定規で水質の検査をしようとする愚か者
平均点を上げて実績作るために易しくしたテスト
出席率を上げるために不登校の生徒を殺す先生

まずあり得ない(であろう)ことを例に挙げてみましたが、それに類することはなきにしもあらずでは。

少なくとも学校では何十年も前から数値目標がありましたね、生徒には。
乾いた雑巾をさらに絞るか、それとも数字を捏造するか・・・。
さらなる荒廃はすぐそこ・・・・。

閑話休題
そんなことを考える私にとってはユングの理論は極めて実践的だし面白いものです。

そもそもひとつの心理、あるいはひとつの心理学的根本原理しか存在しないなどという考え方は、健常人の似而非科学的偏見の我慢のならない専横である。

合理的な心理だけが存在するのではなく、非合理的な心理も存在する

この本、読むうちに題名(『心理学的類型』)を忘れがちになるのですが、最後はこの言葉で終わります。

人間には二種類ある、生産的なひととむさぼり喰うひととである。宗教は両者を統合しようとするひとつの努力である。(W・ブレイク)

そんなわけで第1巻は内向性と外向性の論証・説明でほとんど終りです。

ついでながらシュピッテラーの名前は初めて知りました。ノーベル文学賞受賞者だそうなんですが。なんだか面白そうだったのですが、入手するのが大変かもしれませんが探してみるつもりです。

記事の末尾に章立てのみ略記しておきます。
[amazon asin=’4409310216′ type=’banner’]


第1章 古代および中世の精神史における類型問題
第2章 類型問題に対するシラーの構想
第3章 アポロン的なものとディオニュソス的なもの
第4章 人物判断における類型問題
第5章 文芸における類型問題ーカルル・シュピッテラーの『プロメテウスとエピメテウス』

広告

ユング『心理学的類型Ⅰ』 はコメントを受け付けていません。