求道blog

運・不運

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年11月7日

「播いたとおりに花が咲く」、「師に学ぶ」ということについては広く知られるべき事柄であろうと私は思います。で、今回も内田樹のブログです。

中村天風の著作でもしばしば言及されている事柄ですが、多田氏や内田氏の生(ナマ)の言葉が強く心に響いてきます。
そんなわけで以下「内田樹の研究室」 2003年12月14日付記事より転載。尚、文中の「先生」とは多田宏氏のことを指しています。

「用のないところにゆかない」ということを先生はよく言われる。
どこかに立っていたら石が飛んできて、怪我をした。
もちろん悪いのは石を投げたやつである。
しかし、そのときに私たちはまず「なぜ自分はここにいたのか?」を問わなければならない。
他人のせいにするより先に、「自分はここにいる必然性があったのか?」を問わなければならない。

すると、たいていは、「そこにいる必然性がなかった」場合にしばしば人間はトラブルに巻き込まれるということが分かる。
私たちがトラブルに巻き込まれるというのは、ほんとうは「そこ」にゆかずに済んだのだが、ささやかな手落ちや行き違いや故障が重なって、なぜか「そこ」に居合わせたということが多い。

例えば、忘れ物を取りに行って、交通事故に遭ったという場合。
忘れ物を取りにゆくとき、当然ながら、私たちはふだんよりいらついているし、せかせかしているし、周囲に対する注意力も落ちている。そういうときは、歩いていて人に肩があたったり、階段で滑ったり、別の荷物を忘れたり・・・という「しなくてすんだトラブル」が磁石が砂鉄を集めるように、引き起こされてゆく。
おそらく、そんなふうにして、最悪のトラブルの場所に私たちはそれと知らずに引き寄せられてゆくのである。

そもそも忘れ物をしなければ、私たちは「そこ」にゆかずに済んだのだ。
そのことを考えなければならない。
「蒔かぬ種は生えない」というのは中村天風先生の教えである。
我が身に生じた不運は自らがその種を蒔いた収穫である。
そう考える人間だけが、「次の機会」には「撒種」を最小化するという工夫をすることができる。
忘れ物を取りに帰って交通事故にあった人は「次からは横断歩道で気を付けよう」ではなく、「次からは忘れ物をしないようにしよう」と考えるべきなのである。
「しなくてもよいことをするに至った最初のわずかなきっかけ」を反省する、というのが実はもっとも効果的な「撒種」最小化戦略なのである。メイビー。

「他罰的な人間」、つまりわが身に起きたトラブルを他人のせいにする人間は、「自分はどこでボタンをかけ違って、『そこ』にたどり着くことになったのか?」という問いを立てる習慣を持つことがない。

「誰のせいだ?」という問いを繰り返す人間は、そのあとも「種を蒔き続け」、そうやって「ゆかなくてもよかった場所で、ゆかなくてよかった時間に、会わなくてもよかった人間に」繰り返し出会うことになる。
wrong time, wrong place, wrong person
おそらく、それが「不運」ということの具体的なかたちである。

気の感応が増して行くと、渦が巻くように「必要なものが、必要なときに」集中する、ということを多田先生は言われた。
何かについて知りたいと先生が思うと、そのことについて詳しい情報を持っている人がその日のうちに何人も「偶然」集まってくるそうである。
これは不肖ウチダもわずかながら経験的に分かる。
そういうことって、確かにある。

そこで調子に乗って、うっかり「変なもの」に意識を集中すると、今度は「変なもの」ばかりがわらわらと押し寄せてくるそうである。
これはかなり怖い。
合気道の稽古をしていて、中途半端に感度が高まると、そういうネガティヴな境地に入ってしまうこともある。
だから、私たちはつねに師匠に就いて稽古しないといけないのである。

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