求道blog

敬語とコミュニケーション

Posted in 教育 by UBSGW on 2006年11月11日

文化庁の「敬語の指針(報告案)」(pdf)とやらがまとまったようです。いちおう斜め読みしてみましたが、典型的なお役所文を読み通すだけの忍耐力は私にはないことを再確認しました・・・。

が、その中で
「敬語の使用は,飽くまでも『自己表現』であるべき」

という一文が目に留まりました。要は「こういうシチュエーションでは敬語を使え」などと強制するようなことはしない、らしきことを言っているようです。ん~ 如何にもお役所的。毒にも薬にもならぬお言葉。

でもまあこうして”敬語とは何か、どうあるべきか”を考えることは決して無駄ではなかろうとは思います。しかし、「敬語を正しく使おう!」と唱えても、それだけでは動機づけとしては弱いのかな。

「べっつにいいじゃんよ~」
「意味通じるんだしさ~」
で終わるかも。適切な動機づけというのはなかなか難しそうです。以下、敬語とコミュニケーションに関して内田樹のブログから。

学生にスピーチをさせると、いちばん印象的なのは「敬語」が使えないということだそうである。
パブリックスピーチの場合は、英語でするときも冒頭には「本日はこのような場で意見を発表する機会を与えて頂きましてありがとうございます。しばらくお耳を拝借して、私見の一端を述べさせて頂きます」というような定型的な挨拶をする。当然のことである。
だが、K先生のスピーチクラスで去年一年間、スピーチの冒頭で「挨拶」をした学生は一人もいなかったそうである。
would could should といった助動詞を使った「あいまいな表現」ももちろんできない。
「英語というのはきっぱりと言いたいことを言い切る言語である」ということをおそらく幼児期から教え込まれていて、「英語話者も人間である」ということを教え忘れたことの結果なのであろう。
  (中略)
言いたいことをきっぱり言ったせいでことが紛糾するということがあるし、あいまいにぼかしたせいで、話が前に進むということもある。
問題はコミュニケーションに投じる資源のコストパフォーマンスである。
「敬語」はコミュニケーションのコストパフォーマンスを飛躍的に向上させる利器である。
だが、そのことを学校の英語教育では教えない。
言いたいことをきっぱり言い切らないことによって、してほしいことをしてもらう。
そんなことは大人の世界では当たり前のことだが、教育プログラムとしてこれを具体化するとなると、ほとんど不可能なのである。

2005年1月7日付 「内田樹の研究室」より

指針のように敬語を”自己表現”と捉える限り、それを使う使わないは当人の意思一つにかかってくるわけですから、「おれはそんなの使う必要認めねーよ」という人間には敬語を使えとはいえないわけだ・・・。それだと現状から大して変わらないような気もします。その点、敬語を一種のツールと捉える方が敬語使用の動機づけとしては適切なのかもしれません。

「敬語とは『相互尊重』の気持を表すものであるべきで、そのように利己的な目的をもって使うものではない」という考え方もあるでしょうが。

「そんなの俺しらねー」

という者を土俵に引き込むことこそ教育の真骨頂だとすれば”ニンジンで誘う”手もアリでしょうね。

外国語にせよ敬語にせよ根っこにあるのは人とのコミュニケーション、相手とのコミュニケーション。敬語も勿論大切でしょうけれど、そもそもコミュニケーションとは何ぞやという視点もおさえる必要があるのかもしれません。

今日はいつも以上に何を言いたいのかまるで分からない文章になりました。
原因はただ一つ。
本当に書き残しておきたかったのは次のことだけなのです。それだけ書いとくとなんだか単なる剽窃のようでイヤだったのでクドクド書きました。

コミュニケーションというのは、語り手が「言いたいことを言う」ためのものではない。
メッセージを送った聴き手に「何かのリアクションを起こさせる」ためのものである。

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