求道blog

モラルってなんだろう

Posted in 教育 by UBSGW on 2006年12月2日

今、ヘルマン・ハインペルの『人間とその現在』という本を読んでいます。
その中に「ルターは市民と違ってモラリストではなかったのである」という一文があって、ふと「モラル」について考え初めました。

道徳・倫理・モラル(moral)・モラール(morale)・・・。
昨今様々な形(言葉)で復権が叫ばれているこれらの本質は一体何処にあるのか、考えてしまいます。

辞典をひくと次のようにあります。

モラル:
道徳。倫理。人生・社会に対する精神的態度。

倫理:
人として守るべき道。道徳。モラル。

道徳:
ある社会で、人びとがそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係ではなく人間相互の関係を規定するもの。

以上『大辞林』三省堂より引用

それぞれの言葉の意味は分かったような気になれないこともないのですが、今ひとつピンと来ないです。

「善悪・正邪を判断し、正しく行為するための規範」などといわれても、「じゃ、何が正しいのか」となると人それぞれで千差万別かもしれないし。
「個々人の内面的原理として働くもの」といっても、その内面的原理はどのように獲得されるのか、如何にして教育しうるのかとなるとまたまた疑問が溢れてきます。とくに「外的強制力としてではなく」働くものとしての道徳=内面規範を、公教育という「外的強制力」を以て育成しようとすることには些か疑問を感じなくもないです(にもかかわらず公教育はこれからドンドン法的規制が強化されていくだろうしね)。

明確には語り得ない”モラル”を、公教育において教えることは如何なる条件の下に許されるのか・・・(いかな文科省とはいえ、まさか国旗国歌に象徴される”国家への敬意”こそが「モラル」だとは言わないと思いたいですが)。

ひとりの市民として自分や子どもに”モラル”教育を施す権能を公教育すなわち「国家」に委任することは極めて危険な所業にも思えます。かといって「じゃ、それぞれ自己責任でよろしくね」ともいかないようだし(過去の経緯からするとね)。

なんだか訳が分からなくなってきましたのでそろそろとりまとめますと、

・公権力が法に基づいて「ああせい、こうせい」言うのはご勘弁願いたい。
・モラル育成が必要だと言うのであれば、それは「ああせい、こうせい」「こう考えろ、ああ考えるべし」という教育ではなく、”自らが範を示す”形で行って欲しい。

こんなところでしょうか。

師たるに相応しい教師たちの振舞いに接した子供達が自発的に自らの行いを正すような教育。親たるに相応しい愛情と厳しさを持った大人の振舞いに子どもが感応していく、そのような訓育。

なによりもまず自分自身が行動する。
それが必要なんだろうね。

だからもし私がここで

「『教育が問題だ!!』なんて行ってる政治家諸君。たたけばホコリのでないはずのない君たちに教育を語る資格なぞ無いよ」

などと言ってしまうと自己撞着になるので言わないことにします(あ、言ってしまった。ので今後は言わないことにします)。
※こんなこともありますが・・・。学級崩壊ならぬ「国会崩壊」?

はてなブックマークで「モラリスト」を検索したところ次のような結果でした。そのうちの一部を抜粋すると

・道徳的関心を持つが、自らの道徳規範で人間の善悪を裁断する「道徳家」ではない。
・自己の生きられた体験を重視する。
・社会改革を意図する「革命家」ではない。
・個人の内面的な改善を重視する。

この伝でいくと今の日本で「道徳」「倫理」「モラル」などを声高に言い立てている人の多くは、我が身を振り返るという型のモラリスト的思考よりもむしろ、他人の非を言い立てて断罪する型の「道徳家」的思考に傾いているのではないかと思わなくもありません。

同じ伝で、内田樹は”現代のモラリスト”とお呼びしてもさしつかえない気がするのですが・・・。

このへんで。

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