求道blog

「綺麗すぎる?」安倍氏の言葉

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2006年12月7日

安倍首相の支持率低下、首相就任後の穏健化、造反復党問題に関する「顔が見えない」批判、再チャレンジ政策の後退等々でマスコミの安倍政権批判が目立てきたような気がする昨今ですが。

言葉尻をとらえて揚げ足とって・・・

そんな風にしか見えないのはどうしてだろうか。

安倍首相の歯切れの悪さをあげつらう方々はそれほどまでに「リーダーシップ」をかたった傲慢・夜郎自大な首相の振舞いを求めているのだろうか。

ある新聞の一面コラムを読んだあと、「雰囲気に流される」「その場限りの」「無責任な」「顔の見えない」「言いっぱなし」を感じて少しばかり憂鬱になった。
もしこれが隣り近所のおじさんの言い草ならば、「そうだよね~。尻すぼみになっちゃってるよね~安倍さん」とでも軽く返すところだけれど、敢えて書いておこうと思う。

小泉政権時代、かの天才的政治家のワンフレーズポリティクスに対するマスコミの論調は「説明責任を果たしていない」として比較的批判的であったように記憶する(ひょっとしたら「そうあって欲しい」という私の願望が記憶を歪めているのかもしれないが)。マスコミは、「自民党をぶっ壊す」小泉氏に拍手喝采を送る一方で、「人生いろいろ会社もいろいろ」「自衛隊のいるところが非戦闘地域、どこが非戦闘地域は私にわかるはずがない」発言には割と(かなり?)批判的であったように思う。

大政党を「ぶっ壊す」ような”面白いこと”には来し方行く末を考えることもなく大喜びし、「自分だけいい思いしやがって」とか「なんでおれがそんなことしなくちゃなんねーんだよぉ」といったことにはブーブー悪たれをつく。私たち日本人にとって政治は単なる悪趣味な「バラエティ番組」「エンターテイメント」なのだろうか、その場限りの。

政権獲得以前の安倍氏による匹夫の勇的な言辞に衝動的に拍手喝采しただけの人々が、ようやく現実に直面した安倍氏の「現実的な」姿勢に失望を感じたとしてもそれは他の誰の責任でもなく当人の(拍手喝采した人々の)責任であろう。それは安倍氏の責任ではさらさらない。
セールスマンの絶妙なトークセールスを信じるも信じないも、それは買い手の自由であり、責任だろう。他人の言葉の真意を推し量り、考量判断して決断し、その結果については自ら(も)責任を負う。これは大人ならば誰でもあたりまえのようにやっていることだろう。

「どこかで聞いたような言葉でしか話さない」安倍氏が期待はずれのリーダーであったとしても、それはそれ。「キレのいい言葉」で話さなくなった安倍氏を批判するにあたって「小泉はキレがよかったぞ!それに比べてアンタは・・・」という言い方には強い嫌悪感を感じる。

小泉前首相は、発言がワンフレーズで説明責任を果たそうとしない、と批判されたが、ワンフレーズも決まれば強い印象を残す。
安倍首相の場合・・・言葉がきれいすぎる

剛腕を恐れられた民主党の小沢一郎代表も同じように顔が見えにくくなった・・・党首が本音をぶつけ合わなければ、国民の政治への興味は遠のくばかりだ。

  ~12/7付有明抄

有権者は決して政治家の身なりや言葉遣いに興味を持っているわけではない。彼が何を主張し、何を実現しようとしているかに注目している(と私は思う)。「小泉流」の衆愚政治を踏襲しようとしながらも上手く真似できない安倍氏に「下手くそだなぁ」とボヤいて「おいおいもっと上手くできねーのかよ」と言っていられるほど日本の置かれている状況は長閑なものなのだろうか。

強い印象なら中身は問わない?
綺麗すぎる言葉は駄目?

「言葉がきれいすぎる」という些か意味不明の言葉で「小泉さんが懐かしい」ということを言いたいのだろうか。それはそれで結構だけれど、それってなんだか

「あんたと違って前の彼はもっとワイルドだったわよ」

と一戦交えたベッドの上で煙草を吸いながら嘆く蓮っ葉なオネエちゃんみたいでちっとも”美しくない”。

「国民の政治への興味は遠のくばかりだ」

ほんとうにそうだろうか。
むしろこの一文にはなにかしら「予言者」的な響きを感じるのだが。

国民は興味本位で政治に目を向けているのではないよ。
政治は国民が今まさにに実行している行為ですよ。
政治に無関心でいるということも一つの政治的行為(自殺行為)なのですよ。

馬鹿な読者の政治への関心はもともと興味本位なものでしかないのだから、もっと国民に「すっきりはっきり」アピールしつつあなたのやりたいように好きにやってよ、というのがこの記事の(書かれざる)主張なのだろう(ただの埋め草でないとすれば)。

と勝手に邪推しながら朝のコーヒーを喫しました。

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