求道blog

報道と真実、倫理

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2006年12月13日

先日の暗殺についてのエントリを改稿しようとしたが、長くなってしまったので新たにこれを書く。

日本では自国内での出来事に関して(歴史的事項は別として)「暗殺」という言葉が新聞紙面等に踊ることはまず無い。しかしそれは現在の日本では「暗殺」などという愚行は行われることがない、ということを意味するわけではない(もちろんだからといって暗殺があったとも言えないけれど)。

そこで「報道」と「真実」について考えてみたい。

いささか結論めくが

決して公にされることのない真実というものは現に存在する(と私は思う)。
そしてそのこと(その存在)自体は決して報道されることはない。
「報道されない真実」が存在するという事実そのものもまた報道されない真実なのだ。

では
「すべての真実は明らかにされるべきだ」とひたすらに叫ぶべきか?
それとも
「報道されていることだけがこの世の真実(の全て)でない」ということを踏まえた上で巷間報道される情報に接するべきか?

どうだろうか。
まっとうな大人であれば、(次善の策ではあるけれど)まずは後者を選ぶしかないと考えるだろう。少なくとも私はそう考える(おっと、なんだか「自分はまっとうな大人だ」と断言しているようで気が引けるが・・・事実だからやむを得まい)。
だってその方が実現可能性が高い上に即効性もあるからね。

ダンナの稼ぎが少ないからって嫁が「このカイショーなし!!」なんて罵詈雑言浴びせても始まらないのと同じでしょうね、たぶん。
現状を醒めた目で認識した上で、自分に出来ることがあるならばまずは自分が動いてそれを実行する。

報道に関してもう少しだけ言うとすれば、私自身は世の出来事全てを報道機関に報道してもらうことを望むものではない。どこかの公務員がFAXを誤送信したことなぞ別に知りたいとも思わない。犯罪被害者の(ついでに加害者も)実名を是が非でも知りたいなどとは毛ほども思わないし、実名にするか匿名にするかの判断を報道機関に委ねるべきだとも思わない。

知らない方がマシなこと、知る必要のないことだって世の中にはある。

それでもどうしても知りたいことがあるというのならばお役所なぞに頼らずに「自力で調べたら如何か」と言いたいところだ。(ちなみに私が幾許かの金銭を支払って新聞を定期購読するのは新聞社の取材力に期待してのことである)

仮にまだ明るみに出ていない冤罪事件があったとして、その事実を捜査機関が率先して公表するだろうか?今の私は、彼らがそれほどまでに(隠蔽しようとすればできる自らの非を認めるほどに)真摯な、「正義」を体現した人々だと信じるほど可愛気のある人間ではもうない(そうあって欲しいのはやまやまだけれど)。

実名云々よりもよほど重大な真実が埋もれたままになっているとすれば、そうした事実をこそ報道機関が明らかにする価値があると私は思う(もっとも真実ならば無条件に報道が許されるというものではないだろうが)。
ところが実際には「実名報道」か「匿名報道」か、などというレベルでしか語られることがないのはどうにも腑に落ちない。それをいうならむしろ「実名広報」「匿名広報」とでも言う方が正確だろう。「取材」というのはいつのまにか意味を変じて、事実を追究することではなく単に役所から情報を引き出すことになったとでもいうのだろうか。そんなはずはあるまい。

また、もしかすると「そんなものには報道する価値はない」と仰有るかもしれないが、それはそれで結構だと私は思う。ただし、その場合は「報道の自由」などと広言なさるのを控えていただければ誤解が無くて宜しいのではないか。誇大広告、看板に偽りありってのは端から見ていてあまり気持ちの良いものではない。

実名報道にせよ匿名報道にせよそれによって多大な影響を被ることになるのは(たいていの場合)一個人である。従ってそのレベル(実名か匿名か)で事を語る限りにおいて報道機関は個人の生殺与奪権を握った権力機関であって官公署と何ら変わるところはなく、いってみれば「役所間の縄張り争い」にでも比すべきものだろう。

さしあたって、もし報道機関が「知る権利」の名の下に犯罪や冤罪の被害者となった人やその親族の心情をズタズタにするというのならば、まずは報道機関自体が自らの持つ限界性を(会社存続の危機を犯してでも)公表してからにしてはどうか、ということだけは言っておきたい。

実際のところ、今のマスコミは毎日途切れることなく起こっている”あらゆる”事件事故を自ら再調査し検証できるほどの驚異的な(捜査機関をはるかに凌駕した)能力をお持ちなのだろうか。そうした能力を推測させるほどの衝撃的な記事を読んだ経験は(少なくとも私には)極めて僅かしかないし、しかもそのような記事は十中八九殆ど例外なしに「昨日や一昨日」起こったばかりの事故や事件ではなかった。ろくろく”取材”されることもない昨日今日起こったばかりの事件事故被害者の実名を知り(またそれを報道する)ことの緊急性や合理的必要性を私は認めることができない。

何ごとかを他人に求めるばかりの遣り口は一種の犯罪的行為だと私は思う。
それをやっても罰せられることがないからこれほど世に蔓延してるのかな?
罰せられる可能性がないからヤるって態度はまさに倫理観の欠如を顕すのにね。
そう云う意味では「倫理観の欠如を糾弾する行為」と「倫理観の欠如」は限りなく近い親戚みたいなものだろうという気がする。

昨今よく言われる「規範意識の低下」

それは確かに事実だろうと私も思う(「治安悪化説」には異論もあるが)。
ただ、それを嘆くお歴々のご尊顔を(テレビ等で)拝するたびに私は、高い道徳観・実践的倫理観を体現する人が発する独特のオーラを感じることがまずないという一事を確認する。

私が敬意を感じる方々は、決して声高に世の規範意識の低下を嘆くこともなく(むしろそれを自らの罪責として引き受け)自らの行いを律することに専心努力している、そのような方々である。そのような方の持つ一種の「オーラ」に接する度毎に私は自らの至らなさを痛感し、襟を正さねばという思いを新たにする。

「まず言葉ありき」

この聖書の言葉がいつかただの”言い訳”として使われることのないよう祈る。

なんだかちょっと暗い文章になってるような・・・
あ、別に嫁から稼ぎが少ないと責められて憂さ晴らしにこれを書いたわけではありませんので、念のため。

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