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メディアリテラシー

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2006年12月14日

内田樹『他者と死者』を読みつつ、ふとメディア・リテラシーについて考え始める。

私たちはテクストを読むことを通じて、テクストを読める能力(リテラシー)を身につける。テクスト抜きのリテラシーも、リテラシー抜きの意味も存在しない。読みというのは、その意味でほんらい「交話的」「対話的」なもの・・・

内田樹『他者と死者 〜ラカンによるレヴィナス』海鳥社 2004

メディア・リテラシーとは何かをネット上(だけ)で確かめてみる。

  1. 情報が流通する媒体(メディア)を使いこなす能力。メディアの特性や利用方法を理解し、適切な手段で自分の考えを他者に伝達し、あるいは、メディアを流れる情報を取捨選択して活用する能力のこと。(w-words
  2. 情報およびその周辺に対する読み書き(処理)能力、の意。メディア・リテラシー。広義には「携帯電話やインターネットの使い方」という、ハード・ソフト両面でのマニュアルあるいはルール・マナーの認識も含まれるが、一般的にはマス・メディア(TV・新聞・雑誌)が提供する情報に対する、受け手側の判断や判断能力、という意味で使われることが多い。(はてなダイアリー)
  3. 情報メディアを批判的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のこと。「情報を評価・識別する能力」とも言える。ただし「情報を処理する能力」や「情報を発信する能力」をメディア・リテラシーと呼んでいる場合もある。(wikipedia日本語版)

私自身の感覚からすると3.が一番分かりやすい(私自身の理解に近い)。

私にはメディア・リテラシーを単に「自分が発信するため」にする情報の「取捨選択」と捉えることは一面的でもあり危険なことでもあると感じられる。メディア・リテラシーは「自分に都合の良い部分だけを継ぎ接ぎ」するようなことではないだろうからね。むしろポイントは「発信能力」にさきだつ「受信能力」の方にあり、また情報を取捨選択することそのものよりもそれを取捨選択する際の基準をどのように自分のなかで設定するのか、というところにあると思う(それこそまさしく「教養」の力ということだ)。そもそも適切な受信能力の欠けた人間の発信する情報なぞ情報としての価値は無い。もしそれに意味があるとすれば「私は馬鹿です」という情報くらいのものだろうと思う。

ついでに「リテラシー(literacy)」について調べてみると、おおよそつぎのようにまとめることができる。

  • 読み書き能力。また、ある分野に関する知識やそれを活用する能力。(大辞林)
  • the quality or state of being literate

なお、literate は EDUCATED, CULTURED,able to read and write(ウェブスター)とあり、つまるところは、リテラシー=読み書き能力、教養ということらしい。

「リテラシーとは」「メディアリテラシーとは」どういうものかを確認した上で話をもとに返そう。

テクスト抜きのリテラシーも、リテラシー抜きの意味も存在しない

前掲書より引用

この一文を読みつつ、しばしば「新聞読んでメディア・リテラシーを身につけよう」なんて風な事を言っておられる当の新聞の記事群が本当に「意味のある(読むに値する)」テクストなのだろうかという疑問が湧いてきた。もし、警察発表その他諸々お役所の公式発表をなんの独自取材もなく垂れ流す報道機関があったとしたら、それこそがまさに「リテラシーの欠如」であって、そんな報道機関の記事などは対価を払ってまで入手する必要のない情報だということになる(警察発表だけでは物足らずに独自取材で入手した被害者加害者の生い立ち生活ぶり顔写真等々を掲載することは「ジャーナリスト」の本来業務ではない。それは「裏付け」ではなく「肉付け」「加工」にすぎないからね)。

リテラシーの欠如した情報満載の新聞を読むことを通じて「メディアリテラシー」を身につけようとするならば、それは新聞を批判的に(「ケチをつける」のではなく「クリティカルに」)読みつつ現在の新聞(その他マスコミ)が如何に「リテラシーの欠如した情報発信者」であるかを再確認することでしか読者はそれを身につけることができない。

ひょっとしたら新聞社は「我が身を呈して」読者にメディアリテラシーを身につけさせるために、リテラシーの欠如した記事を選択的に掲載してくれているのかもしれない。もしそうだとするならば私は報道機関に対する認識を改める用意がある。

そして、もし読者の新聞離れが進んでいるとするならば、それはメディアの多様化などが原因というよりもむしろ新聞記事が読むに値する「意味を持ったテクスト」ではない(ことが多い)ということに読者たちが直観的に気づいているからなのかもしれない。そうだとすると読者の新聞離れを防ぎ、新聞社が生き残っていくには、読者にリテラシー云々を講ずることよりもまずもって新聞社、新聞記者自身のリテラシー能力の向上こそが先決だということになる。

もしリテラシーを有しない報道機関が読者に対して「リテラシー」の意義を語りかけるようなことがあるとするならば、それは「いじめは駄目だよ」と唱えながら生徒をいじめる教師と同様、おおいに責められるべきであろう。


そんなわけで不肖私も今さらながら教養(リテラシー)を身につけるべく読書に励むことにする。フムフム

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