求道blog

自己放下

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年1月12日

折々読んでいる田口ランディさんのブログで「「手放す」って、どういうこと?」という記事を読みました。

ぎりぎりまで追いつめられた人間、ドン底に落ちた人間が、ある瞬間にぱっと自分を手放すことがある。この「自分を手放す」という感覚は、手放せない者には永遠に理解できない。宗教的感覚に近いものである。手放せない者は手放した人間を理解できない。時として憎んだりもする。この「手放す」ことの本質について、私は知りたいと思っていた。長いこと。

痴呆老人施設で、水俣で、べてるの家で、チェルノブイリで、私が出会ったきた人たちはごくごく普通の人間だった。ただ一点のみをのぞいては。彼らは「手放して」いた。

読んでいてなんだか解るような気がした。そして少しだけ戸惑った。自分を手放す感覚、これは分かる気がする。それは「解離」「トランス」あるいは「自己放下」と言ってよいのかもしれない。トランス状態で物を書くような経験は私にはないけれども、すごくよく分かる(気がする)。楽器の演奏などでもトランス状態みたいなものはあり得るだろうと思う。自分が「自分なんだけど自分じゃない」ような不思議な感覚。そしてそうした時のパフォーマンスは極めて質が高い。「神が降りてきた」かのような至福の時間。自分で自分のパフォーマンスに驚くなどという、他人様に聞かせたら「おいおい自惚れるんじゃないよ~」と言われるような事態なのだが、確かにそうした実感があるのだからしょうがない・・・。

一方、物を書く人が「自己を手放す」ことについて述べられた前段と、水俣やチェルノブイリの人々が「自己を手放している」ことについて述べられている後段とでは「手放す」ことの意味が異なっている。これもまた私は実感とともに理解できる(水俣やチェルノブイリの人々ほどに大変な経験をしたというのではないけれど)。
降ってわいた災難。泣こうが喚こうがどうにもならない現実に突き当たったとき、他人様に八つ当たりしたり自分を哀れんだりしても仕様がない。残された(積極的な)道は自己放下のみ(消極的な方法は他にも様々あろうけど)。いってみれば「やむを得ざる自己放下」とでも言えばよいのだろうか。解離?

ここまで書いてようやく田口さんの文章がすんなりと私の中に入ってこなかったわけも分かったような気がした(もちろんこれは私の受け容れ能力の問題にすぎないのであって田口氏の文章に問題があるというのではない)。もちろん、べつにとんでもない事態に立ち至らなくとも「自己を手放すこと」は不可能なわけではないけれども、それはなかなか難しくもあるような気がします。子どもや老人ならばやりやすいのかもしれないですが。凡人であるが故に苦しくて苦しくて仕方がないのでやむなく「解離」状態になっているのに、「あっ、なんだかキミ余裕ありそうね。じゃこれも頼むわ~」「いいんじゃない?余裕ありそうだし」なんてことになっちゃうかも。そんなん勘弁。下手に「自己放下」しちゃう凡人の哀しさよ・・・なんてね。

自己放下しつつもそのようには見せない高等技術が必要? というよりも、本当に自己放下が出来ていれば「誰にも有無を言わせない」強靱なオーラが身体から発するのであろう。おそらく。

精進精進。

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