求道blog

鞭打たれる死者

Posted in 社会 by UBSGW on 2007年1月20日

私にとって最近気になるトピック
期限切れ食品、バラバラ、富山冤罪・横浜冤罪、教育再生会議、共謀罪、宇宙軍拡。

昨日今日と週刊誌広告が新聞に(いつもの如く)デカデカと掲載されてた。「セレブ」でもない私にとっては、僅か数百円の週刊誌といえどもわざわざ買ってまで読むのは金と時間の浪費だ(で、煙草代に回すんだけど)。

しかし週刊誌がどのような記事を掲載しているのかは気になる。非常に気になる。私の興味の的は、たとえば「セレブの呆れた実態」とか「有名人の不倫」とか「他人様の私生活」ではない。多くの場合、週刊誌の記事は有名無名の人々の私生活をあばく(あるいは捏造する)ことに注力されている。そのてのコンテンツに私は触手が動かない。その理由は、そうした「顔の見えない」「お顔を拝したことのない」方々の私生活に関する情報が私の生活や仕事、あるいは思考・行動にになんらかの生産的な(前向きの)影響を及ぼす可能性がほとんどゼロに等しいと予測するからである(読みたいテクストは既に山ほどあるのだし)。

ただ、週刊誌には興味がある。非常にあると言ってもよいだろう。恐らく玉石混淆虚実半々(であろう)情報がどのように取り扱われ、どのように情報(商品)として”陳列”されているのかという情報に私は情報としての価値を見出している。

自分のことを書くのは次の機会に譲るとして話をもとに戻そう。

ここ最近、メディアではバラバラ殺人が話題になっている。どちらも兄妹間あるいは夫婦間で起こった殺人。片や被害者、片や加害者。
殺人事件、というだけでも悲劇だがそれが親族間となると尚もって悲劇だと私は思う。もちろん普通の(ありふれた、というと語弊があるかもしれないが)殺人事件は大したことではないというのではない。ただ、最近の二事件の当事者やその近親の人びとの心情に思いをはせるとき、彼らに対する第三者の無責任かつ徒な好奇心があまりにも非情なものに見えるのだ(ちょっと今言葉が見つからない)。

別段、殺人などいまさら珍しい事件ではない(なにせわれわれはカインの末裔だ)。死体の損壊・遺棄も新奇なものではない(だいぶ以前には、バラバラにして食べていた日本人青年がいた)。おまけに親族間殺人などほとんど毎日報道されている。その意味では二事件もありふれた出来事(悲劇)だといえなくもない。
にもかかわらずここまで当事者の、とくに被害者の生前の言動・プライバシーがあからさまかつ執拗に世間に流布されたことがあっただろうか。もっとも、私が知らないだけでそんなことはそれこそ「ありふれた話」なのかもしれないが。

生前の当事者間にどのような感情のもつれがあったのか私は知らない。もし、一つ屋根の下に暮らす人間同士の間に感情のもつれが皆無などということがあるのなら、そのハウツー記事こそ是非とも週刊誌には掲載していただきたいものだ。販売部数が飛躍的に伸び、急いで単行本化されベストセラーになるのは間違いないだろう。しかるに現に為されている報道といえば被害者及び加害者その周辺の「(おそらく)人に知られたくない」、文字通りの”プライバシー””そっとしておいて欲しい話”があっちのほうからこっちのほうから暴き出されている(繰り返しすがその真偽を私は知らない)。

不幸にも犯罪の被害者となってしまったが故に、なにごともなければ「家庭内のよくある話」で終わったであろうプライバシーが巷間に流布される。もしやそこには常人からは窺い知れない何らかの隠された意図・計画が含まれているのだろうか。それほどにも今回の二事件に関するマスコミ報道は常軌を逸しているように私には見えている。

こうなってくると人は可能な限り犯罪の被害者になることを忌避したいと願うようになるだろう。そもそも犯罪の被害者になりたいなどという人間はいないだろうけれども、今後、既に為されてしまった犯罪の被害者がそのことを訴え出ることをためらわざるをえなくなる恐れが、はたして全くないと言えるだろうか。そして仮にそうした風潮が生まれたとき、今度はそれを狡猾に利用する犯罪者が新たに生まれるだろう。

死んでしまえば後はない。
二事件に関してはそう言ってしまうことは可能だろう。ただ、死者に鞭打つような真似は端から見ていていたたまれない。もしかすると当事者・近親者にはなにがしかの言い分があるのかもしれないが、生前の被害者たちが何らの関わりも持たなかったような「世間の人びと」からまるで汚物でも見るかのような視線を向けられるような状況は極めて非人間的状況だというべきだろう。

殺人を「社会に対する罪」として考えるとき、殺人を犯した加害者のプライバシーが捜査機関等によって細大漏らさず調べられることはその目的に照らして許容されるのだろうが、「なんとなく」「おもしろそうだから」「こりゃええ儲け口だわ」「よかった、これで紙面が埋まるよ」的な目的(?)から、被疑者・被告とはいえ他人のプライバシーをほじくり返し、また世間に流布することにどれほどの意義・公共の利益があるのか私には未だに理解できないでいる。まして被害者をや。
仮に殺人を「個人(被害者)に対する罪」として考えたとしても、今回のように加害者のみならず被害者のプライバシーまでが何の必要性もない(公共の利益に資することがない)にもかかわらず暴き出されるような事態においては、「被害者に代わって悪を懲らす!」という正義の味方づらは出来ようはずもないし、おそらくするつもりもないのだろう。徹頭徹尾第三者として、傍観者として、間抜けにも加害者・被害者となった者どもを肴に猟奇的好奇心を満たそう、それがマスコミ報道に潜在している欲望だと私には見えている。

私としては口にしたくないことだけれども、既に現状はマスコミその他による人権侵害は国家権力を以て強力に規制するしかないところまで来ているのかもしれない。それほどまでに一部マスコミの報道は醜悪極まりないように思える。
「言論の自由」は、それが公共の福祉に資するが故に尊重されるべき権利だとされている。よってマスコミが真の意味での「言論の自由」を標榜するつもりならば、同業者として一部マスコミの非行を矯正するだけの見識を示すことなくしては、自由の守護者として語る言葉もその力を失わざるを得ないだろう。もしも積極的に非行を押しとどめることが無理だとしても、すくなくとも(消極的にでも)広告掲載の拒否などで自発的な是正を促すことはできないものか。今回のような事態を前にしてマスコミが拱手傍観しているばかりにおわるのなら、今後マスコミがどれほど正論(らしきもの)を述べたてても恐らく私は鼻で笑うしかないだろう。「いじめは絶対悪」などという言葉が虚ろに響く。

ともあれ、マスコミに限らずとも人が自らの権利を守るためには自律・自制が不可欠のように思える。厳罰化、法規制の徒な強化、倫理観の強調、共同体への奉仕・・・。そうした状況の中であらためて国家と市民、国家と市民共同体について考えてみたいと思う。国家の利益と公共の利益との違い。さしあたりこのことが手掛かりだと私のなかの誰かが呟いている。

日頃書くときには幾許かのユーモアをと思いながら書いていますが、今日ばかりは全くその欠片もない一文になってしまいました。自分の死については笑い話にも出来よう(論理的には不可能なのだが言わんとするところは察していただけると思う)けれど、他人のそれを笑いや侮辱に紛らして書くことはおそらく私には今後も出来そうにない気がします。組織や集団を罵倒し揶揄し嘲笑することはあっても、一個の生身の人間に対してそれをやることは避けたいと改めて思った次第。

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