求道blog

『言葉と無意識』そして正論

Posted in 人間心理 by UBSGW on 2007年1月26日

「正論は正しい」
当然のことだ。なにも改めて言うほどのことでもない。
その改めて言うほどのことでもないほど正しい正論(くどいな)を、くどいほど声高にかつ高飛車に執拗に叫ばなければならないほど、今の日本では正論が容れられることが少ないないのだろうか。

「食べられない物を売るとは何事だ!」
「やらせはけしからん!」

もちろん、それらについて基本的には私も同感だ。
ただ、正論の前にこうべを垂れるほかなすすべのない者を、正義の名において執拗に小突き回すほかには彼らをに改善を促す方法がないのだろうかとも思うのだ。むしろ正論であればこそ、静かに語ろうともボソリと呟こうとも言葉が言葉としての力を持つのが理想的な状態だと思われるのだけれど、ひょっとしたらわたしたちが生きている社会は、声高に叫ばなければ聞く耳すら持ってもらえない、あるいは声の大きな者が勝ちをおさめる、そういう社会なのだろうか。もしそうだとしたら、なんと「分かりやすい」社会だろうか。だって声の大きさが同時にその言説の正しさをも示すというわけだから。

いや、ほんとうはさかさまなのだ。分かりやすい”物語”がまず先にあるのであって、現実とやらはその物語に沿った形で読み込まれ切り取られるにすぎないのだ。なによりまず物語ありき。
だからこそ正論という武器を手にした者は、相手を徹底的に痛めつけ、ときとして死に至らしめる。敵と馴れあうような中途半端な”正義の味方”はそもそも物語の主役たり得ないというわけだ。勧善懲悪、それもまたよし。人びとはそこにカタルシスを求める。
私たちの生きている「社会」「世間」は、あるときは生の現実が錯綜する場、またあるときは劇場。そのような虚実入り交じった極めてスリリングかつ包括的な場なのだ。そこにおいては「昨日の敵は今日の友」「昨日の被害者は明日の加害者」。リアリティ溢れる、というよりもまさに”リアルな物語”がただひたすら消費されてゆく。

われわれの社会の大道から虚構ゆえの楽しみ、芸術が消え去ったのはいったいいつの頃からだったのか、私は知らない。

どんな行為にも<目的>を立てねば気がすまない表層のロゴスは、すべての行為を<手段>におとしめてしまい、いかなる現象にも<意味>を探そうとする表層のロゴスは、人びとをまじめにさせ息づまらせる。まじめな人間は事物の背後のありもしない宝探しに血道をあげて、文化という美しい虚構(フィクション)を楽しむことを知らない。

丸山圭三郎『言葉と無意識』 講談社現代新書

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