求道blog

忘れられた国際ジャーナリスト、河上清

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2007年2月4日

明治生まれのジャーナリストK.K.カワカミこと河上清の評伝。鶴見俊輔の『日米交換船』の中で触れられていた「K.K.カワカミ」の名に興味を覚えて読んでみました。

明治6年、米沢で生まれた河上清。幼名宮下雄七。戊辰戦争で朝敵とされた没落士族が再び這い上がるために残された道は学問のみ。貧しい一族の期待を担って中学に進学、さらに上京して篤志家(曽根俊虎、上杉茂憲ら)の援助を受けつつ慶應義塾、東京法学院、青山学院などで学び文筆で身を立てることを志す。

いっぽう東京法学院時代に田島錦治と師弟関係を越えた親交を結び、次第に社会主義思想に惹かれていく。彼ののちの筆名キヨシ・カール・カワカミはマルクスのファーストネームからとられた。雑誌や新聞への原稿持込みの苦労を経て、「マムシの周六」とも呼ばれた萬朝報社長黒岩周六(黒岩涙香)に認められ若くして萬朝報の論説委員となる(当時の萬朝報には幸徳伝次郎(秋水)堺利彦(枯川)円城寺清(天山)内藤虎次郎(湖南)、斉藤賢(緑雨)ら錚々たるメンバーが在籍)。

1898年には安部磯雄片山潜杉村楚人冠、幸徳秋水らとともに社会主義研究会を結成。彼らの多くはアメリカ留学経験をもち、その思想的バックボーンが主にキリスト教思想であったことは、のちの河上の渡米決意に影響を与えたであろう。この研究会はこのあと社会主義協会(1900)、社会民主党(1901)へと発展していくが、日本初の社会主義政党となった社会民主党は結党の翌々日、治安警察法に基づいて解散させられることになる(おそらく河上自身のこうした行動は天皇制の否定やアナーキズムなどといった過激な信条から発したものではなく、当時の日本で問題化しつつあった社会問題・労働問題への真摯な取り組みであったようです)。
また、河上が怪しげな思想にかぶれているとの評判が郷里にまで届き、警察が聴取に来たとの実家の兄の不安げな言葉を聞かされた河上は、ようやく年来の願望でもあった渡米を決意する。社会民主党解散命令のわずか2ヶ月後、河上はアメリカへ旅立った。

アイオワ大学政治学部やウィスコンシン州立大学で学び始めた河上は、文字通り一歩離れた地点(太平洋の向う側)から日本の近代政治を捉え直しつつフリージャーナリストK.K.カワカミとして、徐々にではあるがアメリカの言論界に地歩を固めていく。日露戦争、第一次大戦にあたっては、アメリカの世論に向けた日本の利益代弁者としてのカワカミの論説が各紙に掲載され、彼の筆名は全米に知られることになる。ところが戦後のワシントン体制とその崩壊、満州事変から日中戦争にともなう日米関係の険悪化という事態を前にして、一ジャーナリストの「ペンの力」は蟷螂の斧と化す。

カワカミによる日米関係関係改善に向けた必死の努力は1941年12月7日の真珠湾攻撃によって無に帰する。その日のうちに「特に危険な敵性外国人」としてFBIに拘束されたカワカミの書いた記事を掲載するメディアなどもはやなかった。おまけに開戦直前まで日本を擁護し続けたことから、彼の言論活動は日本政府の宣伝工作だったのではないかとの嫌疑すら生じる。

こうしてすべての仕事を失ったカワカミには残された選択肢は限られていた。たしかに、息子クラークの妻である竹久千恵子とともに日米交換船で帰国するという選択肢が残されてはいた。しかしかつて「アカ」として半ば追われるように故国を後にしたカワカミにとって日本はあまりにも「遠い」祖国だった。もし帰国すれば社会主義者として、またそのままアメリカに残っても敵国人として彼は疎外される運命にあった。
そして彼は敵国人としてあることを選びとった。

その後、戦争半ばにしてアメリカから故国日本へ激しい非難を浴びせはじめたカワカミを、日本人は転向者、裏切り者と見なし、かつアメリカ人は彼を風見鶏ジャーナリストとして疎んじた。カワカミはワシントンD.C.で終戦を迎え、1949年に失意のまま同地で没した。

おそらく河上にとって唯一の救いは、死の直前に日本で出版した『米ソ戦わば?』が日本人読者に好評とともに迎えられたことであったろうと思います。

「憲法も民主主義も自由主義も、国家という大木の樹根ではなく、枝であり花である。いまの日本の急務は皮相なデモクラシーに走らず、国士の意気を養うにある。この意気と自由民権の思想とが結合したところに真のデモクラシーがうちたてられるのだ」

「国民の心に道義、敬神、愛国、博愛、節操、謙譲の信念がなければ、それは亡国である。自分一個の利害得失に没頭せず、隣人や社会全体を考慮する。財政、経済、貿易、生産などは日本の大問題に相違ないが、根本の問題は国民の精神である」

このような彼の論は一見すると、愛国心や公共心を説く昨今の日本の政治家の論と似ているとも言えるかもしれませんが、河上の用いる愛国や敬神という前時代的な言葉からは強烈な人間愛(決してそれは”日本人にのみ”向けられたものではない)が発しているという点で昨今の日本人政治家の言葉とは甚だしい隔たりが存在するように思えます。一部には河上のことを転向者だとか日和見だとか非難する見方もあるようですが、すくなくともこの本を読む限りでは彼はイデオロギストでも風見鶏でもないという気がします。

彼はあくまでも自分のつるべで思想と言葉を汲み出した。井戸の底にはつねに水が湛えられているのだ。しかしいったん汲み出された水は、それがたまたま厳冬の時期には凍りつき、また暖かい季節にはひとびとの喉を潤す。水は常に「水」だ。

おそらく河上は、昨今の、「歴史と伝統の尊重と愛国心の涵養」という、それ自体は美しい言葉をまるで根のない「イデオロギー」として唱える人びとよりもよほど愛国者でありヒューマニストであったろうというのが私の感想です。

ついでながら、欧米列強の脅威に対してアジア諸国が団結してこれに対抗するという河上のアジア主義の原点となったのは、彼が15歳の時に読んだ東海散士こと柴四朗の「佳人之奇遇」であったとのこと。

柴四朗、どこかで見たような名前だなと思って調べたところ、あの柴五朗の兄だということでした。柴兄弟、河上清、星一(星新一の父)などのことを知るにつけ、薩長閥に牛耳られた明治という時代の特質を感じずにはおれません。

そんなことを考えながら星新一の『城のなかの人』という時代小説集を読んでいると、「維新の志士えらい」「薩長閥、なにか問題でも?」などという一般的イメージ(司馬史観?)への星の反発(というか抵抗というか・・・)が感じられる気がします。
それはそうと星新一、小さい頃に杉村楚人冠を愛読していたとどこかに書いてたなぁ。

(2007年2月6日一部改稿)
[amazon asin=’4620305642′ type=’banner’]

広告

コメント / トラックバック4件

Subscribe to comments with RSS.

  1. Dr. Waterman said, on 2007年2月7日 at 17:38

    これは偶然なのです。実は私、大昔(1992年)に田村哲(Satoru Tetsu Tamura)という人物のことを雑誌に書いたことがあります。

    彼は、1905年にコロンビア大学で学位(Ph.D.)を取り、ワシントンの気象庁に勤めていた頃に結婚して、1907年ごろに日本に帰国、高等師範学校(今の筑波大学)の教授になりました。続編を書くために彼にまつわる資料に気を配っていたところ、今日入手した資料に、この田村博士がK.K. Kawakami について書いている箇所を見つけました。

    田村博士は、河上清と同郷の山形県米沢の出です。河上同様キリスト教に触れ、青山学院に向かうのですが、河上より二年早くアイオワ州立大学に赴き、河上と入れ替わるようにして自身はニューヨークのコロンビア大学大学院に入学します。

    ほんの暫く二人はアイオワで共に過ごすのですが、河上はアイオワの地元紙に載った田村の記事をニューヨークに移った田村に郵送しています。田村はアイオワ州立大学の名物秀才で、地元の新聞がコロンビア大学大学院の特待生となった田村を誇りにしているという内容です。

    多分、普通の人は田村のことを知らないと思います。そして、河上を知る者も、これは田村の手記にあることなので知らない。いずれ日本語で纏まったら、求道士にもお送り申し上げます。(纏まればいいのですが。)

    MWW

  2. UBSGW said, on 2007年2月7日 at 20:09

    おお!!なんと奇遇な!
    このエントリでは触れていませんが、たしかに田村哲についてはこの本にも2ページほどを割いてありました。
    田村との縁がアイオワ行きのきっかけとなったこと、アイオワ到着した河上を田村が出迎えたこと、田村がアイオワ大に留学したきっかけ(まだ日本にいた頃にアイオワ大教授の数学書の記述の誤りを手紙で指摘したところ当の教授から留学を勧められた)、アイオワ大数学科を経てコロンビア大学院に招かれて地球物理学を専攻したこと、帰国後に海軍大学でも教鞭を執ったことなどが書かれていました。
    今、さっそく田村についてネット検索してみました。日本の国会図書館近代デジタルライブラリーで田村の『外遊九年』が公開されているのでおいおい読んでみることにします。
    ドクトルの続編も楽しみに(かつ気長に!)お待ちしています。

  3. Dr. Waterman said, on 2007年2月8日 at 3:34

    一周年おめでとうございます。

    求道士さま(これは私だけのUBSGWさんの呼び名ですが、一周年を期に流行らせたいと思っています)直接メールも入れていただき恐縮です。

    その記述は古森さんの本からですか。私はその本を読んでいないので知らなかったのですが、「外遊九年」にも田村の渡米の動機や自分で渡航費を稼いでから(えらい!)アイオワに行くくだりは書かれています。東京高等師範のほかにも確かに海軍大学で教えていますた。コロンビアでの専攻は今風に言えば地球物理学ですが本当は気象学でした。学位論文は高等数学を用いた地表の温度の研究です。農業では地表の温度が今でも重要な問題ですが、当時はことさら重要テーマだったようです。

    MWW

  4. UBSGW said, on 2007年2月9日 at 3:07

    仰るとおり古森氏の『嵐に書く』の中の記述です。エントリ本文からして、私の感想と古森氏の著作からの要約引用とが混在していてなんだか分かりづらいですね。また記事につけていた書籍リンクが星新一のものと並んでいてまぎらわしいようでしたので、念のため修正しました。
    星一にせよ田村にせよ、決して裕福とは言えない生活の中で苦学した熱意には頭が下がります。


コメントは停止中です。