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フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』

Posted in 海外文学一般 by UBSGW on 2007年2月9日

ふと思い立ち『ギャツビー』を読む(ただし村上春樹ではなく野崎孝訳のもの)。

原著の刊行は1925年。「黄金の20年代」アメリカの頽廃を背景にして一人の青年の破滅を描く、と言ってしまえばそれまでだけど、ひとことで言えばそのような物語。まあ実際、その程度のストーリー(書き物)ならその辺にゴロゴロしてるかな。
カバー裏に「滅びゆくものの美しさと青春の光と影」などと紹介文があったもんだから今までずっと読みもせずにあなどっておりました、正直言って。

だってそうでしょ? 滅びゆく者が美しいわきゃないでしょう。
つまらない女に入れあげて金も名誉もなにもかも蕩尽した挙句、誰れからも顧みられることなくこの世から消えたギャツビーのどこが美しいものか。冷めた目で見ればただのバカ間抜けじゃないの。もちろん、間抜けな人間をどこまでも傍観者として哀れむことに徹すれば、そんな破滅的な人物の物語を美しいなどと言ってられようけれど(そもそも宣伝文とはそういう万人向けの「きれい事」ではあるのだが)。

汚いもんはきたない
つまらんもんはツマラン

あたりまえのことである。人間は汚い、人間は愚か。はっきりしてるじゃないか。だから「そんなことはない、きれいなとこもある」などときれいごと言ってもはじまらない。
「そのようなことは口にすべきでない」
「ひじょ~にケシカラン!」
「そんなこと言ってい~んですかぁぁッ!」

やかましい! 汚いものは汚いものとして、愚かなものは愚かなものとして受け取り、書き、観念すれば(あきらめれば)よいではないか。こんなことを書くと「愚かなのはおまえだけだろ」「後ろ暗いところあるんだろ」などと言われるのかもしれない(いや、確かに愚かなんだけど)が、私が言わんとするところは「まぁまずは目ェ見開いておきたい、耳かっぽじっておきたい」、ただそれだけのことなんだよ。

さて、本題に入ろう。
フィッツジェラルドはこの作品の中で二人の登場人物に自己を投影している(と思う)。無難に社会に適応していくフィッツジェラルド(A)=キャラウェイ、破滅に向かうフィッツジェラルド(B)=ギャツビー。そう私(の場合)は読んだ。もしキャラウェイが単なる傍観者であったならこれほどつまらない低俗な(!)物語はない。

キャラウェイは単なる傍観者としてではなく、光と影の双方に「当事者として」相対し、かつ影(=ギャツビー)をも受け入れ、ただ一人その破滅を惜しむ。そこには、自分の愚かさ、あるいは自らと切り離すことの叶わない「影」から目を背けつつ、自分だけはまともなのだと言ってのける者たちに対する静かな怒りをたたえたキャラウエイがいる。

実際のフィッツジェラルドがどうだったのか私に知るよしもないが、彼の中にも光と影の二つの人格があったろうと思う。影なきところに光なし、だ。フィッツジェラルドは影をどこまでも影として描きだした。たったそれだけのことだ。それほどのことだ。

フィッツジェラルド(B)(=ギャツビー)の本質にはまるで関心のない有象無象がてんで勝手に憶測し、批判し、利用し、そして忘れ去っていく。そうして影を押し隠して生きる者たちが虚偽や偽善や肉欲に取り巻かれたまま「しあわせな人生」をたどる一方で、愛という「光」を目指したギャツビーは破滅の深淵に落ち込んでいく。
そのような皮肉さにいささか感じるところがありました。
いいね、フィッツジェラルド。

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