求道blog

幸福で不幸な12人の人たち

Posted in 警察・司法 by UBSGW on 2007年2月25日

[でっち‐あ・げる]
[1]事実と違うことを、いかにも本当らしくこしらえる。捏造(ねつぞう)する
[2]形だけととのえて、いいかげんにまとめる。
(大辞林)

新聞社の社説盗用やテレビ局の捏造問題がポロポロポロポロでてくる当今、警察のでっち上げもまた同様。もっとも規範意識の高い日本警察、情報管理の方もマスコミ以上に「しっかり」していることだろう。したがって今回の鹿児島選挙違反「事件」で明るみに出たでっち上げ事件は、たまたま浮かび上がった氷山の一角として、おそらく数週間のうちに忘れ去られていくのかもしれない。

上記大辞林の例文にもある。

・この証拠は警察の―・げたものだ

辞書の例文になるほどだから、よほどありふれた出来事なのだ(ろうとこの際言っておく)。

憲法や刑事訴訟法は「自白が唯一の証拠の場合は有罪とされない」と規定する。しかし現実には自白は「証拠の王」とされ、自白が相互に支え合えば立証可能だ。

裏を返せば、自白さえ取れれば「事件が成立」することになり、自白獲得が目的化する危険をはらんでいる

鹿県議選買収無罪判決 「見込み捜査」批判/地裁(南日本新聞)

たしかに、当事者ではない一市民として言うとするならば、そうした法と現実の乖離など大した問題とは思えない(意識が低いとのご批判は甘んじて受ける)。悪人が処罰されるのだから「どうぞよろしく」といったところだ。

ただ、もし「自分自身がまさに当事者であったなら」と想像し始めると、背筋に冷たいものが走る。

警察の取り調べは、「まるでキリシタン弾圧」
穴だらけの調書、物証なしの捜査
「否認しているから」と安易に身柄を拘束

12人無罪 許せぬでっちあげ捜査(東京新聞)

ありもしない事件の犯人と目され、当然否認すれば身柄拘束、世間からは逮捕=有罪と見なされて家族までもが日陰者。仕事を失い友人を失う。そして連日の激しい取調べ、捜査官への迎合を強要されて、あらゆる手段を用いて精神的にも肉体的にも追い込まれる。

事件がでっちあげなら証拠など出るはずもない。となると自白に頼る捜査陣はなおいっそう自白を求めて激しく責め立てる。ボロボロになってどれほど頑張ろうと、いったん虚偽の自白をしてしまえばその自白にもとづいて断罪されることになる。
否認 → 逮捕・拘留、ヨリ厳しい取調べ、起訴 → 有罪 → ヨリ重い量刑
つまり、でっち上げ事件の犯人とされたものの方が、常習的犯罪人よりもよほど辛く人格の崩壊をすらもたらしかねないダメージを受けるというのが実態なのだ。

おそらく、そのとき人は法と現実の乖離を痛いほど感じ取ることになるのだろう。だが、一旦そうなってからその人がどれほどそういう現実について声を上げ始めても聞く耳を持つ者は例外的少数にとどまるだろう。
法や捜査機関の不備を批判する「犯罪者」の声をどれほどの人がまともに聞こうとするだろうか。
「この期に及んで言い訳するなんてみっともないよな」
「あのひと○○で捕まったことあるんだって」

そんなところだろうか。
当事者になってからではもう手遅れなのだ。

したがって今回の鹿児島の一件は極めて(不幸ではあったが)貴重な出来事なのだとも言えるだろう。
「無罪」「でっちあげであった」ことが明白となったが故に、わたしたちは犯人と目された人の声に耳を傾けはじめる。法と現実の乖離、刑事裁判の実態を初めて知り、さらには今現在、逮捕・拘留されている者や受刑者のうちに本来ならばそこにいるべきではない、いなくてもよかったであろう者が含まれている可能性に思い至る。そして真相は文字通りの藪の中。

先日の富山の冤罪にしろ今回の件にしろ、犯罪人に仕立てられた人たちは極めて不幸であったと同時に極めて例外的な幸運を掴んだ人たちでもあるのだと私は思っている。

いま現在、未決・既決を問わず”犯罪者”とされている人たちのうちに無実の者が含まれている、というのはもちろん私の想像するところであって、「そんなことはありえない」と反論されれば私にはその反論に対抗するすべはない。そんなことがもし私なぞに証明できるようであればとうの昔にその無実が明らかとなっているだろう。

ひょっとすると今回のようなケースを「自分たちの社会の安全を守るためには極めて些細な犠牲、必要コストにすぎない」などと口に出来る者がいるかもしれない。しかしその人は自らの想像力を働かせて、「自分がもしその立場であったらば」と一度は考えてみたほうがよい。その上で「いいよ、それでも」と言われるならば私はあなたを”現代のキリスト”として拝し崇めるにやぶさかではない。

この期に及んでも「組織としての責任」ではなく一捜査担当者の勇み足だと言ってのける鹿児島県警、あるいは検察庁・裁判所も含め、彼らの対応振りを見るにつけ、明るみに出て来ない冤罪は相当数あるのだろうと思わざるを得ない。

なんとなれば、人格を踏みにじるような取調べがなされうるような組織をして「組織としては適正な捜査であった」と仰るのだから。

そうか
それがフツーなんだ。
それがふつうにあり得る組織なんだ。

だとすると捏造テレビ局より罪は重かろう。
納豆を死ぬほど喰っても大した害はない。

そのような納豆以上に腐れきった組織を放置できるトップは誰か。県警本部長?そう?
行政府の頂点は内閣総理大臣。日頃「強力なリーダーシップ」を唱える安倍首相は行政府のトップとしてどのように考えておられるのだろうか。地方分権の時代だと言われるだろうか。それとも三権分立か。どうも、われ関せずで放置するときのコメントはいくらでもありそうだが、リーダーたるものこうしたときにこそ”万難を排して”リーダーシップを発揮してはどうだろう。

国家百年の計を見据えた教育改革も必要だろう。だが、いまに生きる国民の市民的自由に加えて人格的尊厳までが傷つけらるような事態が二度と起こらぬよう対処することのないリーダーならば、ま、その程度のリーダーということか。
安倍首相のリーダーシップがいかなるかたちで発揮されるのか注視している。(←どこかの新聞論説みたい)

最初に書こうと思ったことから大きく逸れました。まさに大それた一文。

最後まで読んでいただいた方には御礼申し上げます。

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