求道blog

ナショナリズムと時間意識

Posted in 書籍一般 by UBSGW on 2007年2月26日

しばらく前に森喜朗が「日本は神の国」とのたまったことはよくおぼえている。あの馬鹿ヅラを思い出しながら「アホなこといってんなあ」、と思った記憶がある。そして今回、教育行政を司っているらしい人物がどうでもよい(「それがどうした?ん??」的な)ことを地方での講演で述べたのだそうだ。「神の国」発言ほどではないものの、どうも最近の政治家は浅薄な歴史認識を堂々と開陳することが多いようで恐れ入る。

「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。極めて同質的な国」(・・・)改正された教育基本法に触れて「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」とも語った。同法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについては、「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため」と説明。人権をバターに例えて「栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」

「日本は同質的な国」「人権メタボ」と文科相発言(朝日新聞)

言わんとするところは分からなくもない。たしかに。ただ、この発言からは伊吹さんが直接言及していないながらも滲み出してくる何かがあるように感じられる。

「日本は日本人がずっと治めてきた」。まあそうなのだろう。そうもいえるだろう。しかし「では、あなたのいう日本人とは何を指すのか」と問われたときに伊吹さんが何と答えるのかという点にこそ私は興味を覚えるのだが、その点については朝日の記事を徴する限りよくわからない。まあ、そのうちはっきりするだろう、多分。ま、いいけど。

ちょうどここ数日読んでいた本のなかに「時間のネットワークでつながる」という一節があった。

 時間のネットワークのなかでつながっていくと、ナショナリズムは出てこないんだよ。空間だとかならずナショナリズムになるんだよ。
時間なら、遡るとみんな同じになっちゃうから、ナショナルじゃなくなっちゃう。

内田・平川著『東京ファイティングキッズ・リターン』
いまの日本には、ナショナリズムを鼓舞したくなる、あるいは鼓舞せざるを得ない何か特別な事情でもあるのかもしれないが、よくわからない。ひょっとすると日本にはもうナショナリズム以外にはその構成員としての私たちを相互に結びつける紐帯らしきものがなくなりつつあるのだろうか。あるいはもうなくなってしまったのだろうか。

別段、歴史や伝統に敬意を払うという意味での「ナショナリズム」には文句もないが、私が気になるのは、ナショナリズムは排他性と結びつきやすい(親和性が高い)というところなのだ。上の伊吹さんの発言にはそうした排他的なナショナリズムの萌芽が顔を覗かせている。それを当人が意識されているかどうかはし知る由もないが。

愛国者だという点では私だって伊吹さんにおとるまいと思う。ただ、それでも私は日本を誰が「治め」てきたかなどにはまるで興味がない。どうせ日本人だかクマソだか知らないが、過去から現在にいたるまで、いまわれわれがニホンと呼びならわす土地に私と同様赤い血をもった人間が暮らしてきたことは事実だろう。彼らあるいは私たちがナニ人であるかということなどいまさらどうでもよいことのように私は思うのだが、どうだろうか。伊吹さんはあるいは誰が「治めてきた」のかに焦点を当てているのかもしれないが、それこそ「それがなにか?」だ。

しばしば大陸系の顔立ちと言われる私はもしかすると伊吹さん的には非日本人なのかもしれないな。
まあ、「なぜか日本国のパスポートを保持する非国民」呼ばわりされようがどうしようが、私は私のなすべきことをするしかない。
伊吹さんにも「余計なこと言ってる暇があったらもっと前向きなことしましょうよ」、そんなことを言ってみたい気もする。

失言だか暴言だか知らないが、底の浅さを露呈するような言葉には食傷気味かな。誰が何を言ったのかということは知っておきたいとは思うのだけど・・・。

いかんね。
どうも最近パワーが足りない。
追記)よくよく記事を読めば「大和民族」とも仰っていますね。そうか。クマソの末裔は被征服民というわけかな・・・。

そんなところでいい薬になりました。この二冊。
とくに「リターン」採録の言葉論というか言葉に関する省察は私にとっては「!!!」なものでした。

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