求道blog

『秋霜烈日』~その1

Posted in 警察・司法, 書籍一般 by UBSGW on 2007年3月12日

元検事総長伊藤栄樹氏が死の直前まで書きつづり朝日新聞に連載された回想記をまとめた一書。個人的な来歴はほとんどなく、検事任官後の「仕事」に関する記述のみ。

私は著名人の回想録といえばつい日経新聞の「私の履歴書」を思い出すのだが、この本は、まだ存命の人物が選りに選ったエピソードだけをつづる「私の~」とは微妙に違った印象を受けた。一言で言えば虚飾がない(見えない)というべきかもしれない。それどころか思わず「え?そんなこと書いちゃっていいの?」と言いたくなるような記述もあった。既に死期の迫っていた伊藤氏は、自らを飾ることもなく、」ただ残された者、未来の日本を背負う者への遺言としてこの回想を書き残したのだろうか。そんなことを想像しながら読み終えた。

つい先だっては富山と鹿児島で真っ白無罪の人たちが服役しあるいは逮捕されていた事実が公になった。以前のエントリで私は彼らのことを幸福で不幸なひとたちと呼んだのだが、なぜ彼らが幸福だといえるのか、そのエントリを読んだ方には伝わりにくかったかもしれない。

もちろん彼ら(冤罪の犠牲者の方たち)は不幸な「事件」の犠牲者であった。そして私が何故彼らを幸福なひとでもあると言ったのかといえば、(くどいようだが)彼らは不幸な事件の犠牲者であったことが後日判明し、そしてそれが公に認められた(無罪が確定したという)からだ。

真犯人が明らかとなり、あるいは捜査の杜撰さが白日の下にさらけだされるなどということはテレビドラマでならありきたりの結末だろうが、現実にはそうそうないことだろう(現に富山のケースでは無実の人が服役なさっていた)。めったにないことだからこそ今回、ある程度はニュースとしてわりと大きく取り上げられたわけだ。

『秋霜烈日』のなかには次のような一節がある。

私は、東京地検次席検事の時代、二度ほど公判部の検事に無罪の論告をしてもらったことがある。どちらも多数回の窃盗を犯したとされる事件である。警察が背負わせたわけでもないだろう。泥棒の常習犯になると、ときに親切にしてもらったお礼に、その警察の管内の未検挙の事件を背負ってくる。検事がそれを見抜けないと、そのまま起訴してしまうことになる。

ここに引いたケースに限って言えば泥棒の常習犯が少しばかり重い刑に服したところで大勢に影響はないようにも思える。しかし伊藤は「被告人の利益」という観点から見ればこれは無罪とされるべきだという。伊藤氏はこうした検事の在り方を「公益の代表者」という言葉を用いて表現している。

この言葉自体はごく一般的に用いられる言葉ではある。しかし何を以て公益というかとなると各々微妙に異なっていることが多い。伊藤氏が「公益の代表者」という言葉を用いながら、被害者は勿論のこと加害者(被告人)にすら目を配るべきだとしている点は看過すべきではないだろう。

回想録のその他の部分も含めてその全体から受ける伊藤という人物の印象は「フェア」だということだ。被害者–加害者、取調官–被疑者、取締当局–取締対象者・・・・、そうした種々の局面において、伊藤氏のプリンシプルはフェアネスというところにあったように思われた。

翻って現代。
「社会がおまえを許さない!」と法廷で芝居がかった台詞を吐く検察官、導入が決まっている裁判員制度、取調べの可視化論議などを見聞きして私はどうもそれらからフェアネスを感じることが出来ない。三文役者の(一部)検察官はバカにも見えるし、裁判員制度で言われる「市民の視点」「被害者の心情への配慮」、取調べ可視化がもたらす「弊害」、それらに関する賛否両論を耳にするにつけどうも両者の言い分がそれぞれ別次元にとどまって結局は「正論」だけが一人歩きしているように思えてならないのだ。

ちょっとばかり長くなってきたので、裁判員制度と取調べの可視化については稿を改めて書くことにしようと思うが、可視化と伊藤氏との関連で一つだけ挙げておきたい。

  • 取調べの可視化への反対論者が言う「(取調べ担当者と被疑者との)信頼関係の阻害」について

可視化反対の立場からは、「被疑者が真情を話しにくい」その他云々というのが主な反論のようだが、どうも反対論者の言い分を聞いていると、被疑者が「真犯人である」ことを前提としているように思えるものが多い。もし被疑者が無辜の人ならば録画(可視化)されて困るようなことはひとつもないのではないだろうか。

取調べ担当者と被疑者の信頼関係が重要になってくるのは恐らく「被疑者=真犯人」であるケースだと言えそうだ。

 知能犯についていうと、検事と被疑者との間に醸し出される信頼感情、これこそが自白の最大の原因と思う。そのためには、検事と被疑者がお互いに胸襟を開いて、身の上話をし、同じ社会的関心事について語るといった経過をたどることも多い。相互の信頼感情なしには、ほんとうの自白は出て来ない。
 いずれにせよ、検事と被疑者がのちに街角で再会したとき、笑って手を握れるような調べによって得た自白だけが、信頼できる自白である。検事の良心に照らし、このことだけは忘れてはならない。

どうも上手くまとまらなかった気がするな。
後日汚名返上致したいと思います。

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コメント / トラックバック5件

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  1. 遠方からの手紙 said, on 2007年3月12日 at 23:31

    小林秀雄について(2)

     柄谷行人が、小林秀雄について次のようなことを書いている。 平野謙がどこかで、小林秀雄が「文學界」を始めたとき人民戦線を考えていたのでないかと述べていた。人民戦線と呼ぶべきかどうかは別として、小林秀雄が左翼崩壊後に左翼擁護の立場にまわったことは確実であ…

  2. Dr. Waterman said, on 2007年3月13日 at 1:14

    >未来の日本を背負う者に遺言

    であったことは確かです。この硬派の著作を取り上げてくださって感謝しています。このブロッグに訪問する方々はもちろん硬派なのでしょうから、ご存知の方も多いかと存じますが、なにぶんにも今では古い人ですから「このような本(あるいは人)があったのか」と思われた方も少なくないと思います。

    「取調べの可視化」とは、monitoring のことですか? これに反対する意見のすべては詭弁のはず。Monitoring していけないのは、トイレだけというのが世界の常識です。取調室はトイレですか?

    Monitoring のテープを普通証拠にはしません。たまたま警官が被疑者に暴行を加えたとか主張されたら、警官側の反論のためには使えます。だから警官のためにもなります。大急ぎで設置すべきでしょう。明日にでもできます。

    なんだか興奮して、すみません。 MWW

  3. UBSGW said, on 2007年3月14日 at 15:35

    伊藤氏が亡くなられてもうけっこう経っていますね。それでも(私にとっても)なんだかやけに印象に残っている人物です。

    >これに反対する意見のすべては詭弁のはず

    このエントリの続きを書こうとしていたところ、たまたま日弁連が可視化にについて出している論文を見つけました。
    その論文でもドクトルのおっしゃるのと同様に可視化反対論に対して逐一論駁を加えていて、いちいちもっともなことだと思いながら読んでいるところです。

    >たまたま警官が被疑者に暴行を加えたとか主張されたら、警官側の反論のためには使えます。だから警官のためにもなります

    穿った見方をすれば、可視化反対論者にとって現在の不可視の取調べは、可視化によって得られる取調べの妥当性担保よりも余程大きなメリットがあるのでしょう。

    「その2」エントリはこの論文にも触れながら書いてみるつもりです。

    >なんだか興奮して、
    それはMonitoringについての興奮でしょうか?
    それとも伊藤栄樹氏についての興奮でしょうか。

    いずれにせよ大歓迎です!
    先日頂戴したコメントから考えてみるに、ドクトルにはひょっとして伊藤氏と何かの縁がおありなのですか?
    もしそうならば伊藤氏についてドクトルが書かれたものを是非とも読んでみたいところです。期待しています!(いいですか?期待しちゃっても・・・。)

    さしあたり、伊藤氏の他の著作も入手して読んでみたいと思っております。

  4. Dr. Waterman said, on 2007年3月17日 at 5:23

    鋭い! 彼の私生活の一部を身内からよく聞かされていたということで、たいした「縁」ではないのですが、追々。残念ながら、わたし自身は会ったこともありません。

    MWW

  5. UBSGW said, on 2007年3月17日 at 12:13

    やはりそうでしたか。
    歴代の検事総長など彼を除けば誰一人知らない私ですら伊藤氏には妙な親近感を感じるくらいです。

    最近、巨悪に立向かう方々があまり目立たないのは世の中から巨悪が消えたのか、それともそれにあくまでも立向かおうとする人が消えたのか、どちらでしょうね。

    「体感治安」の改善に忙しくて巨悪に向かってる時間がないのか、はたまたその気がそもそもないのか。


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