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『秋霜烈日』~その2

Posted in 警察・司法 by UBSGW on 2007年3月21日

先日のエントリ(リンク下記)で取り上げた元検事総長伊藤栄樹の回想録『秋霜烈日』の感想の続きを。

伊藤氏が亡くなられてからもうの幾星霜、あらためて調べてみたら1988年没ということですでに20年近くも経っていて少しばかり驚く。彼に何の縁故もない私ですらどういうわけか彼のことがやけに印象に残っている。歴代の検事総長が何人なのか知らないが(調べろよ)、そのうちで私がご芳名を存じ上げているのはこの人ひとりだ。

前回も書いたことだけれども、私が彼の言動から受ける印象は「フェア」であるということだ。なぜそう思うのかと問われてもあくまで私(という偏見溢れる)個人が受けた印象だから特段の理由はないとしかいえないのだが。

つい先日控訴審判決が出た佐賀の連続女性殺人事件は今のところ大したニュースにはなっていないようだ。まだ判決が確定したわけではないし、富山・鹿児島の冤罪事件とは幾分違った事情があるのだろうが(「同一」の事件などそもそもありえないわけだけど)、それらに共通する確かなことが少なくとも一つある。

それを一言でいえば捜査機関による取調べの前近代性ということになろう(「近代」などという”あやふやな言葉”を使うしかないくらい私の語彙が乏しい点は平にご容赦を)。限度を超えた長時間の取調べ、(被疑者本人のみに止まらない)種々の圧力、ときには不当とも思えることのある身柄拘束。身体的自由を奪い、精神的圧力を加えることによって被疑者の自白を引きだすことをして「適正な捜査」とされる不可解さ。

もしそうした取調べ・捜査手法が「まことの」犯人に対して為されるというのならば、法律家ならいざ知らず、素人(私)ならばおそらくそれを黙認する。
暴論を承知で言えば私は「犯罪者なぞその場で射殺すべき」とさえ思っている。犯罪者がうまうまと法の網をすり抜けてデカイ顔をしていられるようなケッタイな規則・制度などクソ食らえとさえ思う。但し、一つだけ限定条件がある。
そいつが「真犯人」である場合に限る、
という条件だけは何があっても外せない。

司法制度を論ずる際に被疑者・被告の人権が考慮されるのは当然のことだろうが、ひとが「被疑者」・「被告」と言うとき、同じ言葉を用いる一人ひとりが各々そこに異なった意味を持たせているように思われることがある。
たとえば、ある人は被疑者・被告を「いまだ刑の確定してないだけの犯罪者」の意味で用い、別の人は「嫌疑を受けているが(ひょっとしたら)無辜かもしれない人」の意味で用いている。

前者と後者では、「被疑者・被告にだって人権がある」という近代法治国家としては当然の認識でさえ、その受け止め方には大きな隔たりが出てくるのは当然といえよう。もちろん理性に訴えればそのどちらもが被疑者の人権を当然のように(或いはいやいやながらも)承認するだろう。「そういうことになってんだから」と。

しかし、当然のことながら「悪人」の利益を守れと言われてそれをなんの躊躇もなく実行できる人というのはよほど人間の練れた人物、寛大な宗教家くらいではなかろうか。もちろん(小人の)私には到底実行不可能だ。

ここで、もし私や私の家族・友人が運悪く何らかの犯罪の被害者なったと仮定してみる。私がもし犯人に復讐をしないとすればそれは犯人を赦すからでは決してないだろう。、むしろ復讐をなすことによって自分自身が新たな犯罪者として断罪されるであろうと予見してやむをえず自分の行動を抑制する(せざるを得ない)というだけのことでしかない。そして復讐を実行できない私は当然に公権力による厳正峻烈な犯人処罰を求めるだろう。

被害者や被害者の親族にしてみれば犯人が検挙され処罰されることは当然の願いだろう。そして捜査機関がそうした被害者・家族の心情を踏まえて事に当たることは社会的にも是認されることだろう。

問題は、「真犯人」か否か。
被害者にしても(あるいは捜査機関にしても)真犯人の逮捕・処罰を望み追求しこそすれ、無辜の人を断罪することを望みはするまい。
それどころか無辜の人が断罪されることによって真犯人がどこかでのうのうと同じ悪事を繰り返すことを許してしまうことにでもなれば、それこそ痛憤極まりない事態だと言うしかない。

と、書いてきましたがまた長くなってきたのでまた次回・・・。

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