求道blog

「呪われた血」はあるのか

Posted in 日本文学一般 by UBSGW on 2007年3月28日

村上春樹が訳した『心臓に貫かれて』を読む。著者はマイケル・ギルモアという音楽ジャーナリストだが、この本自体は音楽を主題とするものではない。この本の主題は「呪われた血」である。

1976年にユタ州で二人の男性が殺害される。犯人はまもなく逮捕された。その名をゲイリー・ギルモアといった。四人兄弟の次男坊、この男の末弟が著者であるマイケル。死刑廃止論の高まりの中で刑の執行が十年間近くにわたって途絶えていたアメリカにおいて、敢えて死刑を要求する奇矯な殺人犯としてゲイリーはマスコミを賑わすことになる。殺人犯の家族が世間で肩身の狭い思いをすることになるのはいずこも同じ、既に音楽分野の評論家として活動していたマイケルもまた兄の愚行に端を発した騒動に捲き込まれていく。

原著の刊行は1994年、同年の全米批評家協会賞(伝記・自叙伝部門)などを受賞した由だが、その間約20年近くの歳月が流れている。もしこの本が単に20年も前の殺人事件やその犯人像を詳細に描いたものであったならば誰もこの本を手に取りはしなかっただろう。四半世紀近くも前の殺人事件ごとき、多くの人びとの興味を惹くものではない。この本の主題は殺人事件などではない(事件そのものについての記述は新聞のベタ記事並の簡略さだ)。

「殺人犯の弟」は、自分たち一族の歴史を呪われたものとして描いている。そう、「呪い」などという非科学的なものはバカげている。確かにそうなのかもしれない。しかし自分たちの家族に次々に降りかかる災禍を、一族にかけられた「呪い」として理解せざるを得ない人がここにいた。この本はいわゆるノンフィクションではあるが、呪いというフィクション(虚構)を描いたノンフィクションだといってよい。細々とした歴史的事実を積み上げていくことによってあぶり出されてくる虚構。そしてこの身内に限定された虚構に加えて、ひとつの殺人事件を契機として世間は新たな別の虚構を作り出す。犯人やその家族たちに関する、彼らとは全く結びつかない新たな虚構が作りあげられゆく。

かつてはトラブルに満ちた私的関係でしかなかったものが、今では世間の好奇の目や、マスコミの詮索の対象になってしまっている。あなたのお兄さんの人生が——ということは同時にあなたの人生の一部でもある——目の前で、あなたの力ではもう始末に負えないくらいに大きく膨れ上がってしまって、やがては、あなた自身の人生までもが、なんだかあなたのものではなくなってしまったみたいに思えてくる。

世間が作り出した新たな虚構、それも極めて類型的でチープなありきたりの「物語」が(著者を含む)当事者たちを浸食しその記憶を拗じ曲げ、蝕んでゆく。おそらく著者は20年近くの時間をかけて呪いの一つを解除しようと試みた。そして彼は、真実の欠片ひとつ見たこともない「部外者」たち、あるいは世間が作り出した、きわめてチープな物語・虚構・呪いを解除することに成功した。しかしまた同時に彼は、自らにかけられた別の呪いを目の当たりにすることになる。

僕はもともと継続する見込みのない家族に生まれ落ちたのだ。そこには四人の息子たちがいたけれど、誰一人として自分の家族を持たなかった。誰一人として伝承や血縁を広めようとはしなかった。

親の愛を知らぬまま生長した父フランク・シニア。彼は妻や息子たちを虐待した。しかし多分彼自身はそれを虐待だとは思わなかった。それはしつけであり訓育であったはずだった。しかしその裏には自分が親に求めて得られなかった愛情を妻や息子たちから得ようとする胸苦しいまでの欲望があった。しかし結果として、愛情を希求するが故の彼の言動が自分と同じように愛に飢えた息子たちを作り出してしまった。

愛に飢えた悲しい人間の再生産。それこそまさに著者が自分にかけられた呪いとして見出したものだった。長男フランク・ジュニアは世捨て人同然、次男は殺人犯、三男は痴話げんかのもつれが原因で刺されたのち死亡。唯一年が離れていて虐待を受けなかった四男だけがまともな社会生活を営んでいる。しかしその四男でさえ呪いと無縁ではない。

(・・・)僕らは自らがかつてやられたように、殴りつけたり損なったりするための子供たちを持つことさえしなかった。そして僕は、たしかに長い間みんなに、自分は家庭を持ちたいと言ってまわってはいたけれど(ひとつにはそれによって、僕が自分の家庭で目にしてきた破壊の埋め合わせをすることができたらと思っていたためだった)、結局のところ、どうしても家庭を持つことはできなかった。(・・・)その夢をかなえるために必要とされる選択の場面において、僕は常に間違った選択肢を選んでいた。(・・・)我が家に起こったことはあまりにも恐ろしいことであり、それは僕らの代で終わるべきであり、止められなくてはならないことであり、子供を持てばまた同じことが起こってしまうのではあるまいか、と。

言うまでもなく、これは決して特殊な例ではない。子供を虐待する人の生育歴を見渡すと、そこにはしばしばわが子と同様に虐待を受けていた事実が見出される。愛と憎しみの再生産。周囲の人間は訝しむだろう。「自分がやられて厭だったのならやらなきゃいいじゃないか」と。あるいは「ケシカラン」と。

不快の再生産など合理的ではない。たしかに。不快なことなら避けて通ればよいはずだろう。しかし明らかに不快なことを、なぜか避け得ない人たちが現に存在している。

その荒廃の息の根を止めるただひとつの方法は、自分を抹消してしまうことである。ある意味においては、それこそ、ゲイリーとゲイレンがやったことだった。彼らは自らの死をもって、血の流れを止めてしまったのだ。

もちろんこの著者は兄の罪を過小評価してはいない。どれほどのことがあろうとも、人に他人の命を奪いあるいは傷つけその権利を侵害する権利が与えられるわけはない。しかし人間の生は当為の言葉だけでは語り尽くせない。もし人生が当為の言葉だけで片付くのなら文学や芸術は不要だ。にもかかわらず現代は上っ面の「事実」をもてはやし、「現実的」という言葉がさも善きことのように響きわたっている。「事実」と称されるもののあやふやさなど、芥川龍之介の作品を持ち出すまでもなくとうに知れ渡ったことではあるにしろ、それでもわたしたちは「事実」だけに執着しがちだ。確実なものを欲しがる。そしてその実、各々が見たいものだけを見ている。

事実だけを偏執的に集積したところで見えないものがあるという”事実”はなぜか見えないらしい。この著作に関していえば、これはときおり見かける偏執的ノンフィクションでは全くない。この著作は事実を語るノンフィクション作品ではあるが、あきらかに魂を揺さぶる力を持った芸術作品だ。それはどこにも救いの見出せない、暗くおぞましく希望のない人生、そしてその人生の支柱あるいは重石となっている虚構(フィクション)を映したノンフィクションだ。

この本の中にほとんど皆無の救いを見出そうとすればそれは長兄フランク・ジュニアの著者に対する愛情だけだろう。

おまえのことを考えると、俺は誇らしい気持ちになることができた。そのとき俺は思ったんだ。おまえの邪魔だけはするまいってな。おまえの前にのこのこ現れて、この姿をさらしておまえに恥ずかしい思いをさせたくはなかった。おまえはうまく過去を捨てられたんだ。そしておれは、その過去をもう一回蒸し返すような真似はしたくなかった。俺は思った。『俺たちのうちの一人は——たった一人だけだが——なんとかうまく抜け出せたんだ。成功したんだ。そっとしておいてやらなくちゃならない。幸福なままにしておいてやらなくちゃならない。それがせめてもの俺にできることだ。そのまま行かせてやろう。あいつが家族の絆に縛られていなくちゃならない理由は何もないんだもの』ってな。

とはいえこれですら胸を締めつけられる思いがする。兄弟・家族としての絆を断ち切ることだけが愛情とならざるを得ない痛ましさ。おそらくこの部分だけを読んでも鼻白む人もいようからご一読を勧めるとだけ言っておくことにする。

最後に
各章の冒頭には家族の写真が掲げられているのだが、そのうちの幾葉かに胸ふたがれる思いがした。まだ十代前半とおぼしきフランク・ジュニアが写っている。
背後に立つ父が彼の肩に両手を添えている。そのジュニアの幽鬼のような立ち姿はまるでどこかの虐殺収容所の囚人のようだ。焦点の定まらない目、落ちた視線、地面から浮き上がってしまっているかのような身体、明らかに止まっている呼吸・・・。目を背けたくなるような写真だ。それは何も彼を見たくないのではない。彼がそのとき感じていたであろう恐怖・苦痛・不信感が私の目を背けさせる。

考えてみれば私自身、かつて彼に似た子供たちを少なからず目にしてきた。自らの責任の及ばない理由によって脅かされ、自らを信じることが出来ず、自信を失い世界に対する信頼感を喪失し不信感に満ちた子供たちの姿を少なからず目の当たりにしてきた。彼らは決してその場限りの笑顔や励ましだけでは回復しない。長い時間をかけなければ彼らの世界に対する信頼感は取り戻せないし、またそれを取り戻せる保証すらどこにもない。

そのような結論に達するのは——自分の中に地球上の継続されるべきではない何かがあり、自らの生命の存続を自らが許さぬ何かがあると感じるのは——たやすいことではない。そんな地点に辿り着いて、自分という人間とその将来の意味を悟ったことによって、僕の人生は変わってしまった。僕はもうかつての僕ではなくなってしまった。そしてもう二度と昔の自分には戻れないのだろう。ときどきそう考える。

今の私に出来ることはさほど多くない。というよりほとんど何も出来ないと言うべきだろう。

「解けない呪いなぞないのだ」
そんなことを言うのはたやすい。

「自信を持ちなさい」
持てるものならとっくに持ってるはずだろう。

フランク・ジュニアの写真を繰り返し見つめながら、彼(彼ら)にとって転機となる出会いあれかしと思う。私の乏しい経験からいえば、人が変わるきっかけはテレビでも本でも新発見の事実でもない。人と人との関係、人との関わりのなかでこそ人間は変わっていくことが出来る。いまのところ私はその考えを変えていない。

今度こそほんとに最後。
重苦しい本ではあるけれど読み進めずにはいられない本でした。おわり。
[amazon asin=’4163521208′ type=’banner’]
(原著)Mikal Gilmore “Shot in the heart”

広告
Tagged with: , ,

「呪われた血」はあるのか はコメントを受け付けていません。