求道blog

虚構と現実

Posted in 社会 by UBSGW on 2007年4月19日

バージニアで銃乱射、長崎で市長暗殺 射殺。

ここ数日ろくに新聞も読んでいないのでこれらの事件に関しても詳しいところは知らない。
今、世界中に「敵は殺せ!」と叫ぶ「お子ちゃま」が跳梁跋扈している。筆頭は西部劇のヒーロー気取りで顔に似合わぬ勇ましげな言葉を乱射する(していた)ブッシュ米大統領。日本の一部政治家もまた例外ではないが。いまさら言うまでもないかもしれない。

自ら作り出した敵(虚像)にミサイルや銃弾を撃ち込むなどという蛮行がアフガンでもイラクでもソマリアでもバージニアでも長崎でも起こったということか。

自らが作り出した虚像・虚構をいつのまにやらホンモノと信じ始め、いったんそうなるともう顧みることをしない。
「敵は敵なのだ、と。犯人は犯人なのだ、と。
彼は立ち止まることを怖れ、また引き返すことを拒む。

彼はおそらく自らの信念に忠実ではあったのだろう。しかし、信念に忠実であるというだけでそれが善きことかどうか話は別だということはしばしば忘れ去られる。そしてまた世には虚構と現実が錯綜し相互浸透し、あるいは「信念に忠実である」「ブレない」などという綺麗にラッピングされた言葉に騙され、そして現実を見ていないという事実にはいっかな気づかぬ「現実」がそこここに溢れている。

暴走する警察であれ銃を乱射する青年であれそのどちらも、ときには立ち止まって省察してみようともせず引き返そうともしなかったという点では大差がなかろう。ありもしない大量破壊兵器、ありもしない犯罪、ありもしない敵意。
ミサイルで、強権で、銃で、「虚構に向かって撃て!」

ところで、今夕のテレビニュースでバージニアの発砲青年が、かつて教師を殺害するとかのストーリーを書いていたと報じられていた。とくに論評とてなかったが。
しかし、報道者はおそらく「そんな物騒なものを書いていたくらいだから今回の事件を引き起こす必然性があったのだ」と了解する視聴者がいるであろうとは考えたはずだ。まさか「いいえ、ただ事実を報じただけですよ」とでも仰るだろうか。べつにそれはそれで構わないのだが。ただ、受け手の解釈可能性を度外視した報道なんてものがあるとは私は信じない。そんな報道が可能だとも思わない。「ただ事実を報じるのだ」などという言葉もまた一つの虚構だろうと思う。別に虚構だからいけないとは言うつもりなどないが。

もし虚構が存在することで現実の生活がマシになるというのならば虚構はむしろ有難いものではないのか。ときに虚構の有り難さが(おそらくは)敢えて無視され、あるいはまた各自の都合に合わせて切り取られた情報の切れ端が「事実」として報道されているように見えて仕方がない。もしも自分たちだけが虚構の上にあぐらを掻いて、そのくせ他人様のささやかな虚構や愛すべきユーモアを弾劾するような腐れ外道がいるのならそいつらをこそ撃ち殺してやりたいものだ。

もしもバージニアの彼が、教師を(牧師でも看護婦でも学生でも構わない)殺しつくし焼き尽くし残虐の限りを尽くす物語をでも書くことによって、自分の内のどす黒いなにかを幾許かなりともゴミ箱にほうりこむことが出来たのならばひとまずそれはそれで結構なことだったというべきではなかろうか。紙に怒りを叩きつけようがキーボードを打ち割ろうが誰も迷惑しない。銃をぶっ放すくらいならもっとどんどん書くべきだ。書くべきだった。

しかし結局、彼が現実世界で他人を殺めたことによって彼の書いた物語は「物語」としての価値を完全に失ってしまったのかもしれない。彼の物語は、彼の「生来の」残虐性を証するものになり果ててしまった。残念なことだ。
言うまでもないことかもしれないが、どれほどグロテスクであろうと残虐であろうと非道徳的であろうと、それが物語にとどまるのならば誰からも非難されるいわれはない。われわれはむしろあり得ないことを語ることによって現実を豊かなものにしてくれたかもしれないさまざまな物語を失い、そうして深みのなくなった世界に生きてるということを嘆くべきなのかもしれない。

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コメント / トラックバック4件

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  1. katsu said, on 2007年4月21日 at 19:12

    こんにちは。
    いささか不謹慎な言い方をしますと、この事件には「大掛かりで華々しい自殺」という印象を持ちます。アメリカには警官隊との激しい銃撃戦のすえに射殺されることを意図的に求めるSuicide by Copという言葉がありますね。
    今回は銃撃戦にはならなかったものの、ひっそりと誰にも知られずに自分だけで死ぬのではなく、大きな事件を起こした末に死ぬという点では似たようなものを感じます(池田小事件などは死刑による自殺ですね)。
    おそらく報道されているような物語を書いた時点では明確な殺意も自殺の意思もなかったのではないかと思います。単純な話、単に切れやすいだけの人間ならばそんなまどろっこしいことなどせずにさっさと実行しているはずですからね。
    たぶんどこかで生きる意志を失ったことで現実感を喪失し、そこから過去の経験などによるいろいろな不満や鬱屈が浮上して増殖をはじめ、他者への殺意が生まれてきたのではないかという気がします。
    もっともこれもしょせん後付の解釈にしか過ぎませんが。

  2. UBSGW said, on 2007年4月22日 at 1:29

    katsuさん、どうも。
    >Suicide by Copという言葉がありますね

    初耳です。一人ひっそり死んでゆくよりも、他人の手にかかって殺される(殺して貰う)ことによって誰かとの繋がりを保ちたいという”人間らしさ”といえなくもないのでしょう。
    やるなら自分だけでかってにやれよ、と言いたくもなりますが。

  3. katsu said, on 2007年4月22日 at 2:02

    そうですね、認知を求める欲求というのが一番厄介ですね。

  4. UBSGW said, on 2007年4月22日 at 10:24

    げにも厄介なるものかな人間とは(ため息)といったところでしょうか。「認知を求める欲求」。人間、複雑なようで単純なようで・・・。

    katsuさんの最新エントリ「なんの話をしているのだ」拝読。市長銃撃事件後に相次ぐ頓珍漢発言への違和感に一票!です。


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