求道blog

ヤクザが消滅しない理由

Posted in 政治 by UBSGW on 2007年4月22日

長崎市で暴力団員が現職市長を射殺してからまだ数日。今度は4月20日には町田市近辺で暴力団がらみの発砲および立て籠もり事件が起こったとの報道に接する。

  • 「暴力団組員が別の組員射殺後、都営住宅立てこもり銃撃」(読売新聞)[キャッシュ

ここ最近、おかしな事件が目につく(それほどでもない、か?)。市に相手にされなかった恨みだ?「死んでお詫び」だ?どうにも理解に苦しむ。暴力団員同士のもめ事のあと、なぜに市街地でパンパン撃ちまくったのだろうかね?不可解といえば4月はじめのこの事件もまた不可解。

なぜ彼はそうした犯行に及んだのか、あるいはまたなぜ彼は(おそらくは意図せぬ)死を迎えることになったのだろうか。しかしそれを知恵も情報網も持たない私が知ることは難しかろう。だからというわけではないのだが、どうもこれらの理解し難い事件からは(言葉になりにくいのだが)”意味のない意味”というのか”不可解さの創出”とでもいうのか、胡散臭い匂いが立ち上ってくるように感じられててならない。ひとびとが、ある日突然背後から撃たれるかもしれない、刺されるかもしれないという恐怖を覚えたときにどうなるのかは言うまでもない。人は直接身体に迫ってくる暴力よりもむしろ「ひょっとしたら襲ってくるかもしれない災難」の方をヨリ恐れる。その意味ではそうした恐怖感の醸成こそが暴力の持つ真の恐ろしさだという気がしている。

暴力が社会に被いかぶさりのしかかりひとびとの不安感が煽られた時代がかつてあった。すでに100年近く経とうとしている21世紀初頭の今になってもあの頃と変わりなく暴力がのさばり、独りよがりの信念に凝り固まった自称愛国者や自称任侠の徒らは時代を超えて生き延びているらしい。

長崎市長射殺の直後に与野党問わず諸政治家のコメントが新聞紙面に掲載されていたが、私が共感できるものは一つもなかった。
「まずは捜査の進展を」
「言論の自由に対する脅威」
「民主政治への挑戦だ」
或る言葉は鈍すぎ、また或る言葉は鋭すぎて響かなかった。ベチョ、ひゅう~ん。

標的が「政治家だから」、あるいは「選挙中だから」民主主義への挑戦なのか? 彼は市長の日頃の言動に「思想的な」反感をでも抱いていたのか?どうもちがう、ちがうらしい。彼はいってみれば「あいつのせいでオレは・・・」「ふざけんなよコノヤロー」という自己の欲望・僻み・感情に忠実ないまどきの市民の一人であって、それが(偶然にも)暴力団員でありまた(それ故に)拳銃を手に入れる悪知恵とルートを持っていたということなのではないのか。とてもではないが彼は言論だとか民主政治だとかいう高尚な(というかいい意味で観念的な)なにものかに対して刃を向けたわけではなさそうに見える。

他人を陥れ背後から突き刺しあとは知らぬ顔で押し通すなどということはべつだん珍しくもないありふれた話ではないか。刃物も拳銃も用いなければ少なくとも法的には罪に問われることもない(法的に責任を問われないのなら問題ないという感覚にそもそも問題があると思うのだがそれは今回さておく)。市長を撃った彼は人並み以上の政治的信念や自己犠牲の精神を持ち合わせているわけではないように思われる。あるのは自己の欲望に対する忠実さのみ。とてもではないが言論の自由だの民主社会なぞを破壊するつもりはなかったはずだ。少なくとも彼自身はそのような意図は持ち合わせていなかったと私は思う。そして彼はきっと今回の犯行に対する世間の反響の大きさに驚いているに違いない。彼は自己の欲望のみを追いかける、いまどきありふれた人間の一人であるにすぎないだろう。

仮にそうであるとしての話だがしかし、彼の今回の行動や、いまのところ事件の背景が見えない相模原の事件あるいは(単なる事故死かもしれないという)読売記者の変死などにしても、いずれもわたしたちの社会に得体の知れない不安感を与えた。くりかえしになるが、いずれの事件に関しても犯人等の主観的動機に関わらず、社会に対して大きな、そして後を引くダメージを与えたと私は思う。選挙期間中の候補者の安全管理だとかもまあ課題ではあろう。政治家たちは自分に降りかかってくる問題だから当然これに熱心だが、一般市民としては政治家の身の安全以上にそうした社会的影響もまた重大な問題ではないだろうか。

ここでちょっと脱線。
率直なことを言わせて貰えれば、はっきりいって大抵の選挙なぞ拡声器で騒音を撒散らすだけの公害の一種にすぎん。選挙期間中、入れ替わり立ち替わりでひたすら名前を連呼し、日を追うにつれて哀願調の叫び声に変わりつつ最後は絶叫!その中身は候補者の名前と「お願いしますッ!」のみ。どこが民主政治、言論の自由なんだかね、まったく。もしも名前を連呼するだけの政治家が襲われるとすればその原因は言論とか民主政治とはまるで無縁のもっとなまなましい理由だろうさ(そんなこともあって政治家のコメントには冷淡になってしまう)。

閑話休題。
言いたいことを口にする自由がない社会。そんな社会が夢だの希望だのを持ちうる社会としてあり得るだろうか。冗談ではない。無理だ。
「べつに言いたいこと言うのは自由だよ。(でも命の保証はしないけどね)」
「あなたに自由を与えよう。口を噤んで平穏に暮らすのかそれとも敢えて口を開いて破滅の道を歩むのか、自由に選び給え。それがあなたに与えられる自由だ」
勘弁してくれ。

一見勇ましげに見える愛国者や勢いに呑み込まれた群衆が社会にどれほどの危害を与えそしてどのような末路を辿ったのかを、私たち日本人は既に身を以て知っている。一旦転がりだしたら止まらない。転がり始めてからではもう遅いのだ。ここ数年そうした危惧をずっと感じてきた。ここ数日来の事件の報に接し、もう転がり始めているのだろうかという悲観的な思いにとらわれている。

ついでながら
市長銃撃に関する報道が言論の自由だとか民主社会を守れだとかいう論調で覆われているところがこれまた奇妙。どうも横目でなにか別のものを見ながらモノを言われているような。田夫野人の知らぬところで日本はいま大きく動いているのだろうか・・・。

そんな気分でいま『ヤクザが消滅しない理由。』(カプラン・テュブロ著 不空社)を読んでます。たしかにこんなきわどい本、大手出版社は及び腰になるのもやむなしかも。力作なのにね。

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コメント / トラックバック1件

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  1. Troubled days said, on 2007年4月22日 at 11:11

    突入劇のおかしさ(^_^;)

     ヤクザがヤクザ身内を殺して、警官に追われて発砲の挙げ句の果てに自殺を企てるという奇妙な事件が東京の町田市であったが、気の小さな一人のヤクザに、数百人も警官が出


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