求道blog

ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』

Posted in 書籍一般 by UBSGW on 2007年5月2日

前のエントリ「Leeくん、君はいま何を思うか」に頂戴したドクトル(Dr.Waterman)のコメントへの応答がどうも長くなったので新たなエントリとしました。

>ドクトル
私も検索してみました。たしかに内田樹が以前言及されていますね。過去ログはひととおり通読したはずなのですがあまりよく覚えていません。しかし別のところ(内田樹とその畏友平川さんの対談「TFK」)で『アメリカの~』への言及があったのは記憶に残っています。

まだあと数ページを残していますがひとまず感想らしきものを。

福音主義をテーマとした部分は今の私にはいささか難解でした。そもそも「福音主義」「メソジスト」などに関する基礎的理解ができておりませんので。その部分に関しては感想すら述べることが出来ません。

しかし、エンターテイナー的説教師の存在は私にはとてもアメリカらしく感じられました(「やっぱアメリカだね~、そういうとこ」という印象です)。

もっともアメリカに限らずとも宗教家・説教師などという人びとには一般にそのような能力というのか資質がそなわっていることが多いと思っていた方がよいような気もします。一種のカリスマ性とでもいうべきでしょうか。しかしそれでも「エンターテイナー」「人気」「大衆」という言葉がアメリカという国のイメージに(少なくとも私の頭の中では)すんなりと(安易に)結びつこうとします。

"anti-intellectualism"に関してですが
>2、3世紀頃より既に anti-intellectualism という動きとそれに対抗する動きが教会にありました

この時期のanti-intellectualismというとたとえばグノーシス派などが関わってくるのでしょうか。
体系的な宗教と”アンチ体系”神秘思想といえば(時代はだいぶ下りますが)イスラムのスーフィー信仰なども頭に浮びます。

ところでこれらのanti-intellectualismが神への没入・神との合一、言ってみれば一個人と神との一体化に主眼を置いたものであったと(私の胡乱な知識にもとづいて)仮定するとしたら、Hofstadterの言うanti-intellectualismは少し違ったニュアンスを感じなくもありません。

Hofstadterはanti-intellectualismという言葉を否定的なニュアンスで用いていますが、その矛先はanti-intellectualismそのものを突き抜けて「anti-intellectualな大衆」に向けられているようにも感じられます。知的な神学者よりもエンターテイナーを求め、世俗的な実利にのみ重きを置くような態度への疑問。いってみればキリスト教史におけるanti-intellectualismが(どちらかといえば)個人の内面におけるintellect的なものとanti-intellect的なものとの関係に主眼をおいているようにも見えるのに対して、Hofstadterのいうそれは個人の対社会的・対集団(教会)的な態度について(それもかなり批判的に)考察しようとしているように思われました。

なにせ宗教・政治・文化・教育と多岐にわたる考察でもあり、読む者の興味に応じて多様な相貌をみせるであろう一冊。この本の題名は『アメリカの反知性主義』であって彼は『反知性的なアメリカ合衆国』とは言っていない(はず)ですが、文面から察すると、もしも彼が学者ではなく(たとえば私のような)暴論を平気で吐けるショボいブロガーならはっきりとそう言い切ったかもしれません。なんとはなし「執念」(怨念?)らしきものすら文面から漂っていたような気がします。

wikipediaでチラッと見たところ彼は一時期共産党に加わっていた由。1963年に刊行された本が何故40年もったってから日本語に訳されたのかその経緯は知りません。しかし今読んでも(今読むからこそ)非常に示唆に富む一冊でありました。

「専門職の興隆」などの章はケディ『アメリカの公共生活と宗教』に通じるものがあろうかとも思って読んでみましたが、どうもまだ生煮えのものが(自分の中に)残っております。さしあたりアメリカの近現代史についてもう少し勉強した上でいずれ改めて感想など書いてみたいと思っております。

追伸
メールアドレス、ファーストネームを加えられたのですね。お知らせ有り難うございます。(@のあとの "cp" は何かの(@とか.とかの類の)略ではないですよね?)

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コメント / トラックバック2件

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  1. Dr. Waterman said, on 2007年5月3日 at 7:08

    cp はそのままです。ですので、誤解のないように書き換えます。markwaterman(at)cp(dot)fuller(dot)edu と。ご指摘ありがとうございます。

    いや、そうなんです。時代的な背景もあって Hofstadter は共産主義のシンパでもあったのでしょうが、そのことに嫌気もさして「反知性」は衆愚的大衆に向けられたもので、オピニオン・リーダーに向けられたものではないのかもしれません。「反知性」で煽る説教屋も含めて意外と勉強好き(!)で、ムーディーは学校(Moody Bible Institute)を作り、その学校は今では(依然、超保守的ながらも)正式に accreditation を受けているちゃんとした大学です。

    創立時の一見、反知性的な情熱から知的ムードたっぷりの大学に変わるということでは、Harvard も似たようなものです。逆の形で有名なのは、1904年だったか Max Weber がシカゴ大学に来たとき、世俗的知性の大学の影に宗教的残滓を感じたという彼の感想です。

    教会史の intellectualism ですが、liberal arts の重視のことで、グノーシスのような当時流行の思想のことではなく、アリストテレスやホメロスなど、当時でも既に古典であった学びのことです。当時の坊主たちも「いいものはいい」と思っていたのでしょう。

    MWW

  2. UBSGW said, on 2007年5月5日 at 12:51

    >「反知性」で煽る説教屋も含めて意外と勉強好き

    ふふふふ。そういうのは個人的には結構好きです。自ら遮二無二勉強してみたうえで到達した反知性。ろくに学ぶこともせずに言いたいことばかりテキトーにくっちゃべってる一部政治家もムーディに学べ、などと叫びたくなりました。

    しかしそう言ってみたはしから、今の日本の政治状況を政治家どものせいにばかりも出来ないかもしれないとも考え込んでしまいます。
    いま『保守革命とナチズム』という本を読んでいるのですが、現代日本の政治状況との類似性を思いフトいてもたってもいられない心持になります。

    どうも今の日本もまた強烈なanti-intellectualismの時代のようです。今の日本の公教育にはliberal artsへの期待など毛ほども存在しないかのようです。

    なにせ公立学校で投資だのPCの取扱法など教える時勢です。かつて自家用車が普及し始め車社会が到来した頃の日本で、人びとが「公立学校で自動車運転教習をせよ」と言ったのだろうか?

    そのようなつまらないことに限らずとも、その場限りの政治屋の言葉に踊る私たち日本人に未来はあるのか?などという思いにとらわれ、「目先のものに目を奪われて過去を顧みない日本人はこれからさきも延々と同じ過ちを繰り返し続けるのさ」とここのところ憂鬱な気分に陥りがちです。

    などと言いながら、すぐに諦め韜晦してしまうところがこれまた日本人の悪弊か・・・などと(以下リピート)

    おお、なんだか愚痴めいてしまいましたがなんとか(細々と)学び続けていくつもりです。まだまだいい本に巡り会うとしあわせを感じます。

    メールアドレスの件、ありがとうございます。


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