求道blog

国体護持ならぬ国益護持

Posted in 政治 by UBSGW on 2007年5月9日

今日は硬い本を読む気力無し。こちらがだらけた気分なので歯がたたないのっす。で、『鬼平犯科帳』を読む。面白かった。実は鬼平初体験。カネのために人の命を奪い欲望を満たすために騙し強請り女を犯す獣どもを蹴散らす火付盗賊改方長谷川平蔵。

江戸時代を舞台とした約40年前の作品を読みながら、少しばかりの隔世の感と庶民の暮らしの変わらなさ加減を実感。あとがきに電車の中でオール読物をひろげて池波作品をむさぼるように読むサラリーマンのことが書かれていたが、最近はいないね、オール読物拡げている乗客なんて。

話はコロリと変わるが、近年(といってもせいぜい去年くらいからの話ですが)よく耳にする言葉、「国益」について一言。

先日テレビで「ナマイキ」中川ヒデなんとか(あの辺は似たような名前似たようなツラばかりでよー区別つきませんわ)政調会長とやらが憲法関係の会議で「国益」「国益」と仰っておられるのを耳にして改めてその感を強くした。

国益とはなんぞや?
さも周知の言葉であるかの如く用いられる「国益」とは具体的にはなんなのだろうか。それなりに報道やら出版物やらに目を通している私だが、どうにもそれが分からない。
「ネットで調べろよ」?

さて、昨今「ネット」と言えば(日常会話においては)「虫取り網」のことでも「ゴールネット」のことでもなくて、「インターネット」のことを指すのはまあ常識と言ってもよいのだろうが、はたしてその程度には自明のものとして「国益」という言葉が用いられているだろうか?否。
猫も杓子も国益国益と仰る割りにはどうもこれ(国益とやら)がよくわからない。

確たる定義も共通理解も存在しないままに「国益」という言葉があふれかえっている日本。なんともヘンだこと。説明しにくい、説明したくないことは全て「国益にかなう」「国益に反する」という(実はただの白布でしかない)錦の御旗で覆いかくされている。

ひょっとしてもう「国益とはなにか」が明確になっていたのか?まるで自明のことのように国益という言葉が持ち出されてくる状況には戸惑いを覚えてしまう。テレビに映し出された中川氏の発言シーンを見たときには「国益」という彼の言葉はむしろ「国体」という言葉の方がよほど似つかわしく思われたよ。

国体といっても国民体育大会のことではもちろんない。詳しくは文部省発行の「国体の本義」をお読みいただければお分かりに・・・ならないと思う。おそらく。少なくとも私にはさっぱり分からなかった。畢竟自分には理解不能だということだけは分かったのだが。

「国体の本義」には、「大日本国体」「国史に於ける国体の顕現」などが肇国、国民性、国民文化等々もっともらしい言葉を用いながら書き連ねてあるが、読めば読むほどso what?。外国人が日本と日本人を知るにはこれほど適切なテキストも無いのかもしれないが。実に曖昧模糊。形式のみ。ただの形骸、骸骨。現代の日本人のうちで「国体の本義」を読んだあと「なるほど、そうか」と言う人はおそらく極めて少数だろう。天皇制そのものに反対する人々はもちろん、象徴天皇制を承認する人であってもこの「国体の本義」は極めて理解しがたいものなのだ。

「国体の本義」からだけでは不分明な国体概念をそれ以外の資料から総合すると、ま、一言で片付ければ「絶対的主権者としての天皇を戴いた統治体制」のことを指すようだ。数百年もむかしならともかく20世紀に生きる日本人(の為政者たち)もまたおもてだって「絶対君主政」を唱えるほどのcrazyさはさすがになかったようだがしかし、「国体の本義」あるいは当時政府が押し進めた国体明徴運動が唱えた国家体制は、ほぼ天皇を神聖不可侵の君主として戴く絶対君主政と言えるような体制(レジーム)であった。「国体の本義」は、まがりなりにも近代民主政治を知る国民や諸外国に向けて「日本国は天皇を戴く神の国であーる」とはさすがに明言できなかった人々がそれを糊塗(誤魔化す)しつつ実質的な”絶対君主的”天皇国家レジームを唱道する役割を担っていた。よってそもそも誤魔化しが隠された目的であるが故に結局何が言いたいのかまるで不明の典型的悪文とならざるをえなかった。

今の日本の政治家の多くは(森ナントカ元首相あたりを除いて)いまさら「国体」概念なぞを持ち出してくるほど時代錯誤ではないかに見えるが、なんのことはない、かつての国体はいま「国益」という言葉に変じただけのことなのだ。

国益=「国家の利益」( 大辞泉)って書いてある?
いや、そのような抽象的な話ではない。近代民主制における国民の政治参加とはすなわち「何が国益なのか」「何をもって国家の利益とするのか」の決定に参画することであり、まさにそこにこそ大きな意味があるはずだろう。にもかかわらず国益についての共通理解が形成されぬまま、ただ「国益」という抽象的な言葉だけがフワフワと漂う今の日本の政治状況は、かつて「国体」概念がもっともらしく語られていたかつての日本とどれほど違っているのか。私にはその違いが見えない。

現代日本の政治家の役割とは国民に国益を尊重すべきことを教え込むことなのだろうか。国益とはいったい誰にとっての利益なのか、利益であるべきなのか。何が国家の利益なのか。

政治家の仕事は「国益を語る(騙る)」ことではなく「国益に関する国民の共通理解を形成する」ことのはずだが、どうも現実に彼らのやっていることはと言えば「国民の代表者」を騙り国益を騙ることばかりのように見えてならない。

国民の代表者として国益を騙る人々は都合の良いときだけ私人を騙るのが今の日本の流行のようだ。

靖国神社にかかわることが外交、政治問題化している以上、私が参拝するしない、お供え物を出した出さないということは申し上げない

黙秘ですか?
首相が靖国神社に参拝することはそれが仮に「私人として」のものであれ、他の者には決してそうは見えない。見えるはずがない。ときとして私人としての思想信条の自由などという理屈が持ち出されるがそれはあまりにも人を喰ったはなしだ。首相が奥さんと週に何回ベッドを共にしているかなどという下世話な話ならば「私人としてのプライバシーですから」で済まされようが、政治問題・外交問題化している靖国参拝を「私人だから」では誤魔化しようもなければ黙秘してかたのつく卑小な問題ではなかろう。

つくづくその卑怯さに腹が立つ。

鬼平さんにひとつ説教頼みたいね。

おっと、暴走はここまで。勢いに任せて書き連ねてしまった。

(2007年5月9日夜一部改稿)

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