求道blog

スプートニクの恋人

Posted in 日本文学一般 by UBSGW on 2007年5月29日

さて。
4月以降私の頭は乾燥注意報発令中です。書くときも話すときも言葉がどうもスぅッと浮かんできませんで。頭をすごくぶ厚い紙(イメージはぶ厚すぎるコーヒーフィルタ)で覆われているような気分。言葉がポタポタ落ちてくるまでかなりの時間がかかります。
Cool Sea。
もっとも体の方は元気いっぱいですが。いろいろ仕込みに励んでおります。
そんな乾燥状態ですが(ですので)、以下、小学生なみの読書感想文を。

(と、宣言してしまうと後の文章がまた出てこなくなって・・・。)
もう読んでから結構時間が経ってしまった二冊。
一冊目はコレ。
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小学校教師の主人公が行方不明になった女すみれを探しにギリシアへ。村上のエッセイ『遠い太鼓』に描かれた情景がそのまま出てきてた。
ああ、焼き魚が食べたくなってきた(『遠い太鼓』にギリシアの焼き魚の話が出て来るのですよ)。

しかし村上作品は(今までに読んだ限りでは)どれを読んでも「おお、そうだ。そうなのだ。同じ人がここにも居た」と思わせる箇所が必ずある。たぶん村上作品を読む多くの人がそう実感されているのではなかろうか。間口が怖ろしく広い。誰もがそれぞれ彼の作品のどこかの箇所で「おお、まさに・・・」。もちろん各々の辿ってきた人生は千差万別なのだから誰もがみんな同じ箇所で「ピン」と来るわけはなく、それぞれが村上の紡ぐ物語から各自勝手気ままに好きなものを読み取る。読み取ることが出来る。極端なはなし、村上作品にストーリーはいらない。パーツのひとつひとつが立ってるから。
・・・・・・
ん、でもやっぱしストーリーがなかったら人は読まないんだよね。読めない。いくらパーツが好みのものでもストーリーがないと(ストーリーが読み取れないと)これが読めない。あたりまえか。

考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる——それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。

うーん
確かに最近のわたし、どこにも行けておりません。書いていないもので。昨日は松岡農相、今日はなんとか機構元理事の自殺にはいろいろ考えさせられるがこれについてはまたの機会に書きたいと思います。しかし安倍さんは驚くべき天運の持ち主かもしれぬ。この点、祖父の岸信介に勝るとも劣らぬのではなかろうか。緒方竹虎・石橋湛山の相次ぐ死・罹病で漁夫の利(?)を得た岸。一方、今回の松岡氏の自殺が台閣への大打撃との観測もある安倍氏にとっては(結果的にせよ)一種の「損切り」であったと見るのは非情に過ぎるだろうか。
なんにせよ事が不適切な会計処理あるいは談合に止まるのならば、人ひとり(ふたりでも三人でも)の命と引き換えにせねばならぬほどのものではないようにも思える。だってそんなもんイマドキ(今も昔も)ありふれてますもんね・・・情けないことだけど。この件に限らずともまあ、いろいろと表だっては取り沙汰されない事情があるのだろうと思っておきます。

新聞というのはどこでも同じね。ほんとうに知りたいことは書いてない

ついでにといってはなんですがこれも。
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どこまでほんとでどこからがフィクションなのか見分けが付きません。エッセイのようで極く短い短編のようで・・・。暗い話ばっかしだし。でもズルズルと最後まで読む。
うーむ。わからん。わかるけどわからん。なんとはなし「キワドイなぁ」というところ。

先日読んだ佐野眞一『阿片王~満州の夜と霧』について近日中にupの予定です。いや~面白かった。岸さんはおこぼれに与っただけなのだとか。里見甫という人物についてはまったくの初耳でした。労作。

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