求道blog

『フルトヴェングラーかカラヤンか』

Posted in 音楽・映画 by UBSGW on 2007年7月5日

昨夜ふと思い立って書棚の奥から一冊の本を取り出してきた。うっすらと積もった埃を払いながら、去る者は日々に疎しとはよくいったものだなぁなどと少しばかり感慨にふけった。音楽が私の生活の中心からはずれてもう随分と経っている。打ち明けたはなし、音楽を聴くことすら最近は稀だ。しかし、音楽に限らず芸術への関心は最近ますます嵩じてきている。ここでいう「芸術」の定義は自分の中でもじつは定かでない。定かではないのでいま試みにこれを書いている。

少なくとも私がいまここで芸術という言葉に見ているものは、音楽・絵画・舞踊その他もろもろという意味での”表現手段”のことではない。「音楽は聴覚に、絵画は視覚に、舞踊はその両方に訴えかける芸術だ」とも言えなくはなかろうが、そのような他人事めいた説明・能書きにはまるで興味がない。

もしも芸術にとって不可欠な何かがあるとすればそれはいったいなんなのか。

なるほど、私の興味はここにあった。
そしていまのところその答えはどうも見出せそうにない。「芸術とは何か」ということも、「芸術にとって不可欠なものは何か」ということも私にはよく分からない。

音楽、絵画、舞踊、文学、映画・・・
情動を惹起する、理性の枠を超える、美を感じさせる・・・

そのような通り一遍の答えが欲しいわけじゃない。「説明」が欲しいわけではない。
ここまでつらつらと書いてきたような堂々巡り、答えのなさげな問いに小さな頭を始終悩ませている人間をすら彼岸へと誘い出す、有無を言わさぬ力の依って来たるところを知りたいのだ。

しかしあらためて考えてみるに、芸術の力などは思ったよりもちっぽけなものだとも言えるかもしれない。というのも万人が納得する芸術、万人を満足させる芸術家がいまだかつていた試しがあっただろうか。世に出ることなく野垂れ死にした画家や毀誉褒貶相半ばする音楽家は数あれど、誰からも批判されず万人に受け入れられた芸術家がかつていただろうか。やれ、俗物大衆迎合技術に劣る時代錯誤ナルシスト傲慢偏屈ユダヤホモ・・・。尽きせぬ罵詈雑言の類のどれ一つとして浴びせかけられることなく生を全うした芸術家がかつていた試しがあったのだろうか。

どれほど名の通った芸術家であっても、否、名の通った芸術家であるほど常に批判に晒されてきたのではなかったか。誰に頼まれたわけでもなく観衆の前に進み出て時には悪口雑言投げつけられたにもかかわらず彼が表現し続けた理由を単なる自己顕示欲やナルシシズムに帰してしまうことはその芸術家のみならず人間一般に対する冒瀆(ぼうとく、です。表示できませんね)とさえ言えるのではないか。人間というものの弱さ汚さは否定せぬまでも、それが全てではないことは各人がもっともよく知るところではないか。

もっとも、芸術の皮を被った自己顕示欲、ナルシシズム、自己愛がそのままの形で観衆に受け入れられることなどなさそうだ。観客は自分自身の欲求の満足をこそ求める。したがって芸術家の自己愛は、聴く者見る者が自身の自己愛と同一化できる場合にのみ受け入れられ得る。別の言い方をすれば、ときに観衆は芸術家の自己愛すらも貪欲に我がものにしてしまうとさえ言える。つまりは、芸術家の差し出すものが「本物の芸術」であれ芸術を装った只の自己愛であれその価値は観衆によって新たに創出される。観衆から遊離した「芸術そのものの価値や意味」などというものがあるとは私は信じない。逆に言えば彼の演奏を(あるいは作品を)露骨に貶めることは、ときとして聴く者観る者自身の「見る目のなさ」を暴露することになる。

思うに芸術とはそこに出来合いのものとしてあるのではない。それは自らの傲慢さ醜さ弱さを剥き出しにすることすら辞さない強い表現意欲を持った芸術家と、彼の表現から貪欲に何かを汲み出そうとするオーディエンスとがいて、しかも彼らが幸運にも時と場所を同じくし協働(競働?)して初めて創り出されそしてはかなく消える、極めてactualな出来事なのだ。そしてそれは明確な形を残さないまでも演奏者・聴衆の双方に(それぞれ独自のあり方で)忘れがたい刻印を残す。時には人生観、人間観をすら揺るがす。文字通り人間の生に直接働きかける。

とはいえ芸術家の中には公衆の面前で演奏することを避けたグレン・グールドのような奇特な人物もいないわけではない。それでも私は芸術のactualityを信じて疑わない。グールドはたまたまふつうとは別の形で自身の芸術をかたち作ろうとしたのだろうと好意的に解釈するのみ。彼のピアノの音が異質であろうと録音に鼻歌が混っていようと目が狂気に血走っていようと解釈が常人離れしていようとまるで頓着する気はない。

音楽に限らず、絵画にせよ文学にせよ凡そ如何なるジャンルの芸術に接したときにも、私はただ彼が何を表現しているのか、何を表現しようとしているのかに耳を傾けたい。彼の演奏に飽き足らなければまた別の演奏家を聴くまでのこと、なにも彼の演奏や彼の人間性について論評し判定するするのは私の仕事ではないし出来ることでもない(好き嫌いの判定は出来るとしてもそんなものは他人に訊かれでもしない限りは口にするまでもない)。まして自分が好まない演奏家のファンに「どこがいいのか、あんなもん」と言葉を投げつける気もない(なお、ふつう芸術とは見なされない評論・論説であってもそこに論者の真率な思想的格闘の痕を見出したときには、私はその論にさえ「芸術」を感じることを言い添えておく)。

聞く耳を持つ者だけに聞こえる。より正確に言えば、聞こうとする意欲を持つ者だけに聞こえるてくる。
おおよそ芸術とはそうしたものではないか。どうもそれがいまの私の答えのようだ。

はて?
フルトヴェングラーもカラヤンもどこへやら。
いまさら言い訳めきますが、この本も単に「フルヴェンとカラヤンのどっちがすごい?」的なものではなく彼らの芸術観の違いに焦点を当てたものでした、ということで(お茶を濁す)。ちなみに著者は作曲家・元ベルリンフィル首席ティンパニスト。その語り口からはフルトヴェングラーへの親愛の情が溢れてます。
機会があれば改めて書いてみます。きっと多分おそらくもしかするとかも・・・。

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コメント / トラックバック2件

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  1. Dr. Waterman said, on 2007年7月5日 at 7:24

    久しく音楽に金を掛けることはなくなりましたが、公共図書館の無料CDのお陰でフルヴェンであろうがカラヤンであろうが意外と様々な音楽を聞くような世界に戻っています。以前は同じ金を掛けない方法でもクラシック曲専門のラジオ局だったのですが、聞きたい曲に、あるいは指揮者に集中できるのがCDですね。無料でよかったー。

    MWW

  2. UBSGW said, on 2007年7月6日 at 9:58

    かつては「(ラジオで)好みの演奏家が出演するから」という理由で夜の外出を控えたことが何度もありました・・・(レコードやCDを好きなだけ買う資力などありませんでしたので)。
    CDをはじめ本当にいまは音盤(音データ?)の入手方法がいろいろありますね。有難いことです。

    そういえばひところ「CDか?レコードか?」論争などもありましたが、いつのまにやらデジタル録音花盛り、というよりアナログ絶滅?
    いずれにせよ便利な世の中ではあります。アクセス手段は多いに越したことありません!感謝感謝。


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