求道blog

事実と真実のスキマ

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年8月7日

かつての私にとって、根拠の無い主観的・独断的な文章を読まされることははなはだしい苦痛であり難行苦行であった。したがってそのような文章は読まない、破棄する、無視することにしていた。独り言を延々と聴かされるのはたまらない。なぜ「たまらない」のかといえばそれは、書くことそのものや書いている自分自身に酔っているようにしか思えぬ書き手に敬意を感じることは難しく、またそれゆえその言に耳を傾けようなどという気が起こらないからである。敬意を向け得ぬ書き手の文章を読まされることはまさしく苦痛以外のなにものでもない。

しかしこれは逆説的にいってみれば、たとえある文章が一見して主観的・独断的な文章であるとしても、私がその書き手を尊敬し尊重できる限りで読むに耐え得るということになるのだろう。

もちろんこれは私一身に限ってのはなしではある。幸いなことに私は嫌いな文章、読むことが私に苦痛をもたらす文章をなにがあってもまなければならぬという立場にはいない。たとえば私が学者であったならば、毛嫌いしている他の学者が冗漫な文体で書いた、焦点のぼやけた長大な論文でさえも、同じ村(研究分野)の住人のものであれば全く読まずには済まされない場合もあるのだろう。なにせ批判(クリティーク)するにもまず読まねば始まるまい。「あいつ嫌い!」では済ますことは出来ないことを呪い、せいぜい自分の心のうちで彼が村から出て行って(この世から消えて)くれることを願うしかないのかもしれない。

ある意味、幸せな境遇だと言える(そして不幸だとも言える)。

しかし、この世にはクリティークを目的とした文章しか存在しないわけではない。否、むしろそうでないものの方がはるかに多く存在する。
それともこれは不当な断定だろうか。確かにいま私がなした断定には根拠が無い。あえてあるとすれば私の実感というしかなく、統計的手法も論理的必然性もない。反証可能性の有無でいえば、「まったく無い」。したがって公の論議には値しないというわけだが、私は断然そう言明する。「存在している」と。

長くなるのではなしを端折ることにする。

公の論議、学術的討議にはそぐわない文章(言説)であってもそれが「わたしの意見」「わたしの見解」と明示して表される限りでそれは公にされるだけの価値があると私は考えている。
こう言うと、「そんなことは当然だろ」と言われるかもしれないが、この私の言葉は「公にされる価値があるか否か」を問うものではなく私自身の見解の表明であって、こうした「一見解の表明」に対してそれが正しいとか間違っているとか反論されても困ってしまう。そして敢えて親切にも(これは決して皮肉ではない)反対の論をなすのならばまずは「私の見解はそうではない」という言明をなした上でその所論を述べていただきたいと思う。決して「定説はそうではない」とか「教科書に○○とある」とか「根拠を示せ」とは仰らないで頂きたい。なにせそんなものはもともと無いのだから、無い袖は振れぬ。語るのならあなたの所論を語ってほしい。正解など要らないのだから。

ここまでのことを短くいえば、
それが個人名の元に(つまりは個人的見解であることを明示して)なされる言説であるならば、それに対する反論はまずなによりも先にその言説(見解)が個人的見解であるという「事実」を受け入れた上でなされるべきではないか、ということだ。

ここで問題となってくるのは、その個人的言説がどのような媒体に載っているかということかもしれぬ。その媒体がたとえば新聞のように「公平・客観」をいちおうの旗印にしているものである場合、そこで表明される言説は「個人」の名が示されてたとしても「公平・客観」な”公器”の為すものに見えてしまいがちである。それ故、新聞社・マスコミあたりが「断定」を避けたがることもうなずけないことはない。しかしながらマスコミが個人的見解の表明を避けたくなる要因は、彼らがつねづね「公平・客観」を売り物にしているところから来ているのであって(これまた不当な断定だろうか)、はっきり言えばマスコミの一身上の都合であるに過ぎない。つまり、マスコミが被傭者ならぬフリーの書き手に、「おらとこの都合にあわせてくれろ」というのは、その良否はともかく当然のことと言える。大言壮語は我が身を縛るのである。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。自縄自縛。自縄自爆!。

例のごとく話が逸れてきたようだ。これまた大言壮語と言うべきか。

確かに「不当な断定」は避けるべきである。しかし「断定が不当」であるわけではない。

断定的にしか語り得ぬことは少なくない。客観的根拠を示すことが出来なくとも敢えて断定的に語るしかないこともある。表現の冗漫さや曖昧さが文章の存在価値そのものを無に帰さしめるであろうとき、語ることをやめるか、それとも「不当な断定」という非難を甘んじて受けるかを選ぶ自由くらいは書き手に残されて然るべきだろう。

最後に。
これを書くにあたって内田ブログに自分が書きこんだコメントを読みかえしつつ改めて思ったことがひとつ。
右寄り政治家は「事実」「証拠」が大好きらしい。しかし「事実」「真実」を語るにあたって客観性を過度に重視する危険性というのがあるのではないだろうか。「証拠は無い」「事実かどうか断定できない」という物言いはいかにも客観性を重視しているようにも見えるが、彼らの為すべき仕事は「客観的事実」を究明することではさらさらなく、事実関係の曖昧さを乗り越えて難事を片付け、事を処理することであるはずだ。「それは不当な断定である」という批判は甘んじて受けよう。それでも私は繰り返して言う。それはあなたの仕事では無い、と。

当初の予想通り冗漫な文章になってしまいました。こんなダラダラした文章、さすがに他人様のブログには書き込めないわな。

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コメント / トラックバック2件

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  1. Dr. Waterman said, on 2007年8月8日 at 12:41

    >「証拠は無い」「事実かどうか断定できない」という物言いはいかにも客観性を重視しているようにも見えるが、彼らの為すべき仕事は「客観的事実」を究明することではさらさらなく、事実関係の曖昧さを乗り越えて難事を片付け、事を処理することであるはずだ。

    断固、不当ではありません!異議なし!!

    人を死刑にするなら証拠を見せろと言いますが、「意見」を言うのに証拠などいらない。しかし、これは「事実」ですからなどと小賢しい嘘を平気で言って自分の「意見」の根拠にする奴には、「証拠を見せろ!」と声を大にして言います。

    第一、学問の世界(自然科学を含む)だってそうです。やたらと厳密性に拘泥する学者に限って生産性が低い。朦朧とした人間が、朦朧とした世界に生きているのだから、朦朧とした人間的温かみがありさえすればいい。年毎にそう感じるようになりました。

    MWW

  2. UBSGW said, on 2007年8月8日 at 22:29

    >朦朧とした人間が、朦朧とした世界に生きているのだから、朦朧とした人間的温かみがありさえすればいい

    同感です。
    このドクトルのお言葉にしても、「それは逃げではないのか!?」と言って言えなくもないでしょうが、私にはドクトルの仰らんとするところがよく分かる気がします。

    >やたらと厳密性に拘泥する
    私自身、かつては客観性や厳密性にやたらとこだわった時期がありました。そもそも文学などという「役に立たないモノ」はハナっから読みもせず、評論だの学術書などだけ相手にして、不遜にも一字一句(”てにをは”までも)鉛筆片手にケチをつけていったものです(今から思えば恥ずかしい限り)。そのころの私はそれこそが厳密性の追求だと信じ込んでいたのですね。馬鹿馬鹿しいことですが。そしてそのような態度から何かが生まれたかと言えばもちろん皆無、でした。

    このあたりのこともブログのネタに出来そうです。
    実際、こうして(自他の)ブログを通しての対話の中から、「あ、これ書けそう」「ああ、それなら私はこう思うんですが」などと次々に浮かんできます。たった独りで厳密性にこだわって、「あやふやだからまだ発表できない」といつまでも抱え込んでいれば死ぬまで何も生み出すことはできなかったでしょう。

    ま、「ただの開きなおりじゃねえか」といわれればまさしくそのとおり!!悪いか!?ってなもんです(笑)。


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