求道blog

辺見庸『いまここに在ることの恥』

Posted in 書籍一般 by UBSGW on 2007年8月14日

出版直後に新聞の書評欄で目にし、気にはなりつつも読まずにいた本をようやく読んでみた。辺見庸『いまここに在ることの恥』。

そのときの書評は著者に好意的なものではあった。しかしながら、いやそれゆえに私はその本をなんだか読みたくなくなった。ほんとうは読みたいのだが読むことが躊躇われる本となった。

資本や市場、またそれらの潤滑油でしかないマスメディアにまつわること、そのなかにじつはもっとも深い恥辱がある。

そう語る著作が当のメディアで好意的に評されている奇妙さ。だからといって著者を批判するつもりは毛頭ない。毛ほどもない。善悪、正誤、そのようなところでグダグダ言うつもりはこの際全くない。私は、メディアをコキおろした著作が当のメディアで好意的に評価されるというところに興味を覚えた。いや、「なんだかひっかかった」と言う方のが実感だった。己を批判する者に対しても門戸を開く公平さ、をそのメディアの度量を示すものとして評価するのか。それとも単なる節操のなさとして蔑むべきか。いまから思えばそのようなことを無意識のうちに感じつつ、結局読まずに今まで過ごしてもうほとんど忘れかけていた。

そうしたところが先日この本をふと手に取ってみた。読んでみた。そして、この著者、どんどん「自虐的」になっておられるような気がした。肩を並べて語り合おうと思っていたら相手はどんどん先へ、あるいは後ろへ遠ざかり、読者の私は置いてきぼりを食わされた。そんな戸惑いは確かにあった。が、彼の問題意識には深く共感するところがずいぶんとある。

 こんないたって大真面目な話をしていると、臭い息をして、腐った目つきをした男たちがヘヘンと笑う。なんだかがんばってるね、でも意味ないよ、と。

思うに「意味がない」という言葉そのものをかつて一度たりとも吟味したことのない人間の吐く「意味がない」にはまさしく意味がない。
面と向かって人と話すとき、「ああ、この人の語る言葉はなんだか軽い」、そう思うことが時々ある。語彙の豊富さだとか饒舌さだとか周到なレトリックだとかそういうものとはまったく違った部分で、軽い。そのような言葉にしばしば出会う。野太い声、作為の透けた緩慢な語り口などで誤魔化そうとしてもどうにもならない軽薄さというものがある。自分の語る言葉の持つ意味についてフト考え込む、恥ずかしいと思う、そうした経験を経た人々の言葉はどうも自然と重厚な響きを帯びていくもののようである。

「(そんなことしても)意味がない」。

そこには主語(主体)が欠けている。しかしいま、世の中には主体のない言葉が溢れ、そういう言葉におそらく誰もがうまく説明できないなんだか微妙な違和感を感じながらも、主語不明の言葉があちこちで吐き出され続けている。

世間の常識では「不穏当」とみなされる言葉を記事中で用いた著者に部内の者が言う。

「私はいいですけどね、これは社内でとおるかどうか・・・・・・」(中略)婉曲に慇懃に、かつやや威圧的に。自分という主体を隠して、同時に何かを無傷で裁定しようとする。非常に不快でした。

こうした物言いが官民問わずどこにもかしこにも溢れている。

主体のない言葉には歯向かえない。抵抗できない。私がしばしば用いるカッコつきの「正論」とはまさしくこのような”主体性を持たない言葉”のことだ。私はこのような「正論」が厭わしい。この点、著者の言葉に強い共感を覚えた。

主体性(キンタマ)を隠してモノをいうことしか出来ないことへの羞恥心、それがあればまだ聞く耳も持てるのかもしれない。しかしそもそも自分が一個の主体で在ることを放棄し、鵺のような「世間」「常識」に従うことこそが正解であり「大人」になることだと信じられる社会においては、そのような「羞恥心を持たないことへの羞恥心」すら生まれようがないのだろう。

そうして結局は「やったもの勝ち」の社会が延々と続いてゆく。誰もが我知らぬうちに自分たちの住処すなわち社会をよってたかってぶち壊してゆく。そうして言うのだ。「犯人はだれなのだ?」と。

だれからも指弾されることのない、むしろ祝福されるかもしれない行為のうちにひそむ罪ならぬ罪。明証的ではない罪。これこそがむしろより深い恥辱ではないのか。

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