求道blog

主観と客観

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年8月27日

「確たる根拠がない」
「それは空理空論だ」
「根拠を示せ」
この手の言葉は曲者である。

いつごろからのはなしか知らないが、「主観的」「客観的」という二つの語句を並べてみたときに後者をよしとする向きがある。かつてのわたし自身がまさにそうであった。その頃のことを思い出すことが最近とても多いので少しばかり書いてみようと思う。ただ、ここのところ他のことに気を奪われがちで、また独り言めいたことに終わりそうな気がするが、その点、あらかじめお断りしておきたい。

主観的な見方であれ客観的な見方であれ(人間がほんとうに客観的なものの見方ができればの話であるがそれはさておき)、そのいずれの見方もこれを他人様に伝えるとなるとこれがなかなか難しい。

どうやら昨今の流れを見ていると(主観的な物言いだなぁ)、客観的な言説はそれだけでもう既に説得力があって他人に明確にその主張するところが伝わるのだ、あるいは客観的な言説は客観的であるがゆえにそれ自体で既に価値のあるものだという含みが感じられることが非常に多い。極めて多い。それに対して主観的なものの見方というのはいささか旗色が悪い。「それはあなたの主観だ」とさえ言えばそれでもうまともな”反論”に見えてしまう。全くそのようなことはないにもかかわらず。もちろん良心的な人ならば「それはあなたの主観だ」という言葉のあとに「客観的な」データ・根拠を示すことによって当の主張が主観的だということをクールに示してくれることが多い。ところが中には「それはあなたの主観だ」と言うのみで終わる者も少なからずおられるが、そうした態度ははたから見れば、主観・客観のはるか以前に「他人に何かを伝える」「他人と何かを共有しよう」という大前提が見失われているようで余り説得力がない。

もちろんそうした「根拠がない言説は説得力に欠けますよね」という主張自体はそれなりに見るべきものがあると私は思うのだが、ただ「根拠がないぞ!」という言葉だけで相手の主張を全否定できるものではあるまい。

アベさん(首相)ではないけれども、ある事件に関して釈明するにあたり「証拠がないではないか」「そんなん言うのなら証拠出してみろや」という”反論”は、その言葉自体は客観的(正確には客観風)であってもその実まったく客観的ではない。しかしその一方で、証拠がない(見えない)以上はそれが主観的なものだとも断定はできないだろう。つまりは主観だの客観だのという以前に既にコミュニケーションのあり方そのものに難がある。

「空」といえば「雲」と連想するがごとく客観性といえば学者・科学者という言葉が浮かぶ(はいはい、主観ですよコレ)。もし学者・科学者たちが客観客観と念仏を唱えるばかりで学者同士の討論・コミュニケーションによって学的真理を追求するという大目標を忘れてしまえば、そんな学問には大した価値はなくなるのではないだろうか。もし彼ら科学者が客観性を重んじているのだとすれば、それは単に「客観的であること」そのものが目的ではなく、客観的であることによってコミュニケーション・学者同士の切磋琢磨が可能になり、結果として学的真理に少しでも近づける蓋然性が高いからなのではなかろうか。つまり客観性というのは円滑なコミュニケーションを図るたã
‚ã®æ–¹ä¾¿ã§ã¯ã‚っても、なにも「客観的」でさえあれば誰がどうやってもそのうち真理に近づけるというものではないのだろう。私自身はアカデミックなトレーニングを受けたことのある人間ではないが、しかし何人か尊敬する学者がいる。そして彼らには或る種の共通点(もちろん私の主観ではある)がある。それは土のような共通点なのかといえば、「道具に踊らされていない」ということである。ここで私が言う「道具」という言葉には、客観的手法(統計だとか史料だとかその他もろもろ)とやらも含んでいる。彼らは自分自身が抱える疑問を解明するためになら何でも使ってしまうような貪欲なところがある(私はそう感じている)。決して彼らは手段と目的とを混同しない。道具をいじることに熟達しさえすれば何か自分が真理というものに近づけるなどと考えてはいない。道具はどこまでも道具、そういう割り切りが彼らの文面からは透けて見える。

つまるところ、客観的な根拠をどれほど積み上げていったとしても、必ずしもそれだけで何かが分かったことにはならないはずだ、そういうことを私はここで言いたかった。そういえば私が尊敬する歴史家の一人である阿部謹也は若き頃、その師上原専祿から「知るとはそれによって自分の中の何かが変わることである」と教えられたことをどこかで書いていた。
それによって自分の中の何かが変わる。私はこれを読んだとき、知ることとは自分が何かを失うかもしれないリスクというものを引き受けることでもあるのだと理解した。知ることとはおそらく単に知識を掻き集めることなどではない。知ること、すなわち単に「知識」などというありふれた言葉では言い表すことのできない或るものによって、ときにはなにがしかのものが得られまたあるときは何かが損なわれる、そういうことなのだろうと私は考えた。阿部は研究テーマの選択にあたって上原からこうも言われたという。「それをしなければ自分が生きてゆくことができないものを選べ」。
もしも学問が単に知識を掻き集める作業に過ぎないのならば上原の教えを実行することなど誰にも出来まい。しかしもちろん、分野によっては膨大な知識なくしては語ることを許されない学問もあるだろうし、微細な資料をコツコツと蒐集・整理する必要があったりもするだろう。そうした作業に生涯を捧げる覚悟が求められることも在るのだろう。言ってみれば捨て石・同僚の踏み台となる覚悟を要求される、とでもいえばよいだろうか。したがってこうした地道なテーマもまた上原の言うそれをすることなしには生きてゆけないテーマであるということは充分にありうると私は思っている。

なに一つ賭けることなく、ただただデータを集めればそのうち何かがポッと出てくるほど学問は甘くはないだろうし、客観的でさえあれば(客観的であろうとさえすれば)それだけでもう何か一つのことを達成したなどとは到底言えまい。

思うに「はたしてこの見方は客観的であるか?」という懐疑の視線は他人に対して向けられるよりも自分自身に向けてこそ意味がある。しかしどうやら現実にはそれが他人に向けられることの方が多く、ときには「『客観的でない』という主観」が幅をきかせている。なにをかいはんや。客観性ã
ªã©è¦‹ã‹ã‘ほど大したものではない(もちろん私の主観。他人に示すことのできるような根拠は皆無。)。
より客観的であることは望ましいこととはいえ、客観的でない・主観的なものを全否定できるほど絶対的なものではない。既成の価値観やいわれのないドグマに囚われていないかを常に自分に対して問いかける。そうしてこそ何か価値あるものが生まれてくる可能性が開けるのではないだろうか。

もちろんこれは私の主観である。おわり

(追記)
少しばかり時間を置いて読みかえしてみて、恥ずかしくなってきた。「客観」だとか「客観性」だとかに含ませた意味がかなり混乱してますね。そのあたりおいおい考えていくとします。余計なことは書くまい・・・

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コメント / トラックバック2件

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  1. Dr. Waterman said, on 2007年8月28日 at 5:13

    いえいえ、興味深く読みました。書くことを指導する機会があり、よく言うのですが、よく書ける人に限って引っ込み思案が多い。自分が考えている以上に、読む人はなるほどと感じるものです。書かなければ無ですが、書けば自他を益します。

    >主観的な見方であれ客観的な見方であれ(ほんとうに客観的なものの見方ができればの話であるがそれはさておき)、そのいずれの見方もこれを他人様に伝えるとなるとこれがなかなか難しい。

    近頃、ふとアウグスティヌスを手にとって開いたところに、えっと思うことが書いてありました。

    人は(学者に限らず)「理解されなければならないことを発見する方法と理解されたことを表現する方法の二つ」に心配らなければならないという趣旨でした。彼の『キリスト教の理論』といった内容の著作で、多分、日本語訳もあると思いますが、求道士様は同じ趣旨をお書きになっている気がしました。

    MWW

  2. UBSGW said, on 2007年8月28日 at 15:08

    ドクトル、コメントありがとうございます。
    万民平等の世の中ではありますが、自分自身に対して課すルールと他人へ求めるそれとは自ずと異なってきてしかるべきではなかろうか、という漠然とした思いもあって今回書いてみました。結局漠然としたままですが・・・。

    既にお気づきかもしれませんが、このエントリは先日の内田ブログでのドクトルのコメントと、このブログに何度かコメントくださったkatsuさんの直近のエントリに触発されて書いたものです。なかなかお二人のように理路整然としたものは書けませんけれど、ドクトルも仰る通り「書かなければ無」なのだとしばしば自分に言い聞かせております。

    アウグスティヌスは(詳しくはありませんが)興味ある思想家です。今度探してみるとします。


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