求道blog

高橋源一郎『ニッポンの小説』

Posted in 日本文学一般 by UBSGW on 2007年9月10日

ぐい呑み片手にパラパラと読み始めた。

「ほほう」「ふんふん」「そーだそーだ」。

しかし読み進めるうちにだんだん「(カッカカッカ)なんたるこつ!」なったのは自分でもなぜだかよくわからん。挙げ句の果てには、やれ引用と地の文の区別がつきにくいだとか引用多すぎぢゃーなどとぶつぶつ因縁までつけはじめた。理由不明。分析中。納期未定。

しかしこの著者が小説という表現形式に対する強烈な問題意識を持っていることはよくわかった。私の怒りの原因はもしかして彼が私に憑依したのか?(そうかもしれぬ)。

一読者として言わせてもらえれば、小説には二種類ある。ひとつはストーリーとして面白いかどうか以前にそれ自体(文章自体)が既に作品としての魅力を持つもの。もうひとつは読み終えたらもうそれっきりになってしまうもの。なんだか意味不明のようだが今回は敢えて詳しくは書かぬことにする。いや、それもあんまりか。
言ってみれば詩と散文との違いに近い。

実のところこの二つの形式の違いについてはよく分かっていないが、今までは単に韻文か否かの違いだという風に捉えていた。簡単すぎるか!?もちろんこれはいくら「形式」についての説明とはいえなんでも形式的にすぎる捉えかたではある(しかし大抵の人は大抵これで納得してくれる)。この違いについてさらに先へとわけ入れば想像以上に拡がりを持つ問題ではある。このあたりのことが手を替え品を替えして取り上げられていた点はとても有り難かったが、なかでも荒川洋治の名前と吉本隆明の「詩学叙説」を知り得たことが私にとっては収穫であった。

じつにわたくし、吉本隆明、読んだことなし、荒川洋治、初耳。今回とくに荒川について興味大爆発であった(のでさっそく彼の本を入手予定)。

いつになくたくさんの付箋をペタペタと貼りつけ、読み終えてみて吃驚。付箋だらけ。そしてその半分(ひょっとすると3分の2くらい)が荒川からの引用(おそらく。なにせ地の文との区別がつけづらかったので)。

というわけで荒川氏のものらしき文章は今回引用しない。「!」「!!」「!!!」「我が意を得たり!!」がいっぱいであった、とだけ。

以下は(たしか)高橋の文。

彫刻家は、他人の彫刻を「鑑賞」するだろうか。あるいは、映画監督は、他人の映画を「鑑賞」するだろうか。音楽家は、他人の音楽を「鑑賞」するだろうか。 (中略) 「鑑賞」するのは、「散文」にマインド・コントロールされた消費者(鑑賞する人たち)だけなのである。

だいたい、小説に書かれていることばのすべてが、一つ残らず、かけがえのないものであるわけがない。ほんの少々。もしかしたら、数行、あるいは、一行だけなのかもしれない。

島田雅彦もどこかで似たようなことを書いてた気がする(彼の訳したマンデリシタームの「アフロディーテ」はとても好きだ)。

島田といえば、彼が村上春樹を評して「くだらないファンタジーだ」とのたまったらしいがほんとうなのかね。私の中では村上へのこの言葉とアフロディーテとが同一人物から出たものとは思いがたいんだが。

ファンタジーがくだらない?
村上(のファンタジー)がくだらない?

どちらにしても、そりゃあんた、それをいったら小説家としては自爆行為でしょうよ。

まあ、はたからは窺い知れない因縁つうのはありがちだけどさ。

はて、また迷子になっちまったよ。

とにかく高橋源一郎もこりゃ読まねばならぬ。

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1件のフィードバック

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  1. said, on 2009年10月18日 at 19:00

    吉本隆明くらいは読んでから書いていただきたい。期待しています。


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