求道blog

安倍氏は信念の人であった、のか

Posted in 政治 by UBSGW on 2007年9月19日

なんだか今さら今までの数々の前言を翻すようなタイトルですが・・・。今回ばかりは(読んでいただけるのなら)是非最後まで読み通していただければありがたい(アタマだけ読むってのは今回のみご勘弁を)。

「なぜ“ポッキリ”折れたのか 安倍首相の「心」を分析」[キャッシュ]という記事を見かけた。精神科医や臨床心理士といったいわゆる「専門家」の「分析」ということになっているが、その内容は、失礼を顧みずに言わせてもらえれば、まあ、下らないお伽話というやつである。

むろん彼らの分析自体は決して荒唐無稽とは言えないだろう。しかし、彼らは誰一人として安倍氏を直接診察したわけでも面会したわけでもなく、われわれと同様にテレビで彼の最後の演説を見たというだけにすぎず、その点では私のような素人と同じ地平に立つ「只の」専門家に過ぎないわけだ。陸に上がった河童ならぬ陸に上がった専門家。いや、もっとはっきり言おう。そこでの分析はお世辞にも分析と呼べる代物ではなく、一つ二つ精神分析学の専門用語(に見える程度のもの)がまぶされているだけで中身は床屋政談以下の代物だ。別に彼らが精神科医である必要などどこにもないようなお茶うけ話である。おそらく読売新聞にとっては彼らの肩書きが欲しかっただけと見える。また、私の見た映像ではこの記事が言うような「涙目」(退陣表明会見の際の安倍氏の表情のこと)には見えなかった(首相官邸HPにある映像を見た)し、施政方針演説の際の映像もこれまた同様(若干滑舌が悪かったようだが)この記事が言うほどの異常な点は見出し得なかった(「涙目」については私も確言は出来ない)。

ちなみに今回のエントリはマスコミ批判でも専門家批判でも、そして安倍擁護でもない。大手メディアがなかなか語ってくれぬことを私自身が書いてみようという試みである。

安倍氏は退陣表明以後、まるで溝に落ちた犬(失礼!)のように叩かれまくっている。曰く「坊っちゃん」「ポキッ」なのだそうである。上の記事も趣旨はそのようなものだ。もちろん私も、安倍氏がポキッといったという点に関しては認識を同じくする者ではある。が、私は別に聖人君子などではないにしろ、彼をいまさら小突き回すことにはまったく興味がない。

そもそも安部氏が1年前の自民党総裁選挙で圧勝し得た要因は、「改革の旗手」と見なされていた小泉が自らの後継者と位置付けたこと、そして対外的な、特に北朝鮮に対する「毅然とした態度」が自民党員の圧倒的な支持を得たこと、そして総裁選挙には直接には関係のない一般市民の熱烈な支持が「選挙の顔」として”使える”と自民党議員に確信させたところにある。なかでも対北朝鮮強硬姿勢は度々メディアによって流布されたため、少なくとも世間一般の少なからぬ人々にとっては安倍氏の人物イメージを形成する上で重要なファクターとなったと私は見る。

就任後の安倍政権は、やらせミーティング、閣僚による数々の失言をものともせず着実に「実績」とやらを作っていった。是非はさておき教育基本法改正、防衛省昇格、国民投票法成立・・・。安倍氏は「戦後レジームからの脱却」という自らの信念を着々と現実のものにしていった。そしておそらく安倍氏は「北朝鮮に対する軟弱外交」もまた戦後日本の病弊と考えており、彼にとって対北朝鮮強硬姿勢は単なる人気取りのためのポーズにとどまらない重要性を持っていたはずである。いつの頃からか「ぶれない小泉」「ぶれる安倍」と前任者と比べられ貶められるようになった安倍氏であるが、彼が徹頭徹尾貫いたのは対北朝鮮強硬姿勢でもあった。この点に関しては今もなおその評価は衆目の一致するところであろう。

仮りに安部氏が任期満了の日までその座に留まっていたとすれば、この対北朝鮮政策に大いに頭を悩ませることになったであろうことは容易に想像できる。既に関係6ヶ国協議においては日本がこだわらざるを得ない拉致問題が「埓が明かない」として「埒の外」も同然の状況にあり、さらにここ数週間の報道に接する限りで米朝関係を軸とした北東アジア情勢は確実に妥協と(なんだか怪しげな)緊張緩和へと向かっているようである。

これは対北朝鮮強硬政策を一貫してきた安倍氏にとって容易ならぬ事態である(いや、容易ならぬ事態であった、か)。「ぶれてる」「ぶれてる」と言われながらも、安倍氏自身はおそらく常に自らの信念に忠実であった、はずである。少なくとも彼自身は人が言うほど「ぶれている」とは考えなかったのではなかろうか。

彼が常に信念に忠実であったことの傍証として、政権末期に巷間に流布した「KY(空気が読めない人)」という評価を挙げてもそれほど奇異ではないと思うのだがどうだろうか。

空気が読めない人というのは必ずしも感受性が鈍いとは言えない。問題はその感受性がどこを向いているのか、どちらへ向けられているかということだ。私は「空気が読めない人」とは「内向的な人」と言いかえてもよいのではないかと思う(むろん、常にそうだとは言わないし「読めない」「読まない」「気にしない」はそれぞれ微妙に異なる)。内向的な人はしばしば外交的外向的な人よりも感受性が鋭い(こともある)。繊細、敏感、デリケート、神経質、扱いにくい、変人・・・、いろいろ言いかえがききそうだが、ここでいう「内向的」「外向的」という言葉にはネガティヴな含意はない(そしてもちろんポジティヴな含意もない。ちなみに私は強い内向型である 関連エントリ:「MBTI心理テスト」)。

私たちの日常生活においては「内向的な人」という言葉にそれほど良いニュアンスは含まれない。むしろ「暗い」「何を考えているか分からない」「薄気味の悪い人」という含意さえあり、それに対して「外向的な人」の方には、「人付き合いの良い」「明るく」「楽しい人」といった含意がある(ことが大半である)。

しかし改めて確認しておくと、本来 C.G.ユングのいう「内向」「外向」にはそのような価値判断的な要素は含まれていない(疑問の向きは直接原典にあたってみてください)。ユングの言う「内向」「外向」概念を私なりの言葉で言えば(畏れ多いことではあるが)、

・内向的人間:自分自身の内面的規範を行動の準則とする人
・外向的人間:周囲の環境・状況(すなわち事実)を行動の準則とする人

となる。

さしあたり、このエントリを読むにあたって「内向」「外向」という言葉になんら価値判断(どちらが「良い」とか「嫌い」とか)が含まれないことを了解していただければ私の言わんとするところが誤解なく伝わると思う(思いたい)。

つまり、安倍氏は(良くも悪くも)常に自分自身の内面規範すなわち信念に忠実な人であったのだということである(単なるワガママという説もあろう)。この、自分自身の心中にあるルール(信念)に忠実でありつづける型の人は、周囲の状況の変化次第で評価が大きく変化する(左右される)。安倍氏の対北朝鮮強硬政策に即して言えば、これが政権発足当初は「毅然たる姿勢」として積極的に(ポジティヴに)評価され、その他の要素とあいまって彼を政権の中枢に押し上げたのだが、周囲の情勢変化(たとえば米朝接近、たとえばもう政治生命も長くはないなというひそかな(?)評判)によって以前と全く同じ強硬姿勢が「頑な」「柔軟性を欠く」「空気読めない(KY)」という消極的な(ネガティヴな)評価に変化していった。

何度も繰り返すが、安倍氏の対北朝鮮政策そのものは政権発足当初から今までほとんど変化していない。首尾一貫して「強硬な姿勢」を貫いた、といえる。むしろ、変化したのは安倍氏自身ではなく明らかに彼を取り巻く(そして日本を取り巻く)環境の方である。米朝の緊張緩和という北東アジア情勢すなわち「環境」の変化があり、また参議院選での大敗という「事実」が生じたことによって、安倍氏に対する国内外からの評価は一変したのである。アメリカは安倍の対北強硬姿勢が邪魔になり、国民は年金問題その他の対応ぶりを見て遅まきながら「安倍つかえねぇ」の判断を選挙で明示した。

元来、内向型の人間は何を考えているのかが外からは分からない。一見しただけでは彼がどういう内面規範を持ち、ある状況において彼がその規範を現実に対してどのように適用するかが周囲の人々には皆目分からないのである。その点、外向型の人間はそもそも「内面」規範などという「見えないもの」よりも周囲の人々が共有する(共に経験する)状況・環境に柔軟に(無定見に)合わせていくが故に、周囲の人々は彼の行動を容易に予見し得る。そしておそらくそれ(驚かされることがないという安心感)故に周囲の人々は(彼ら各々が内向型であれ外向型であれ)内向型よりも外向型の人間を好むのだろう(もちろんそれは「一見さん」に限ればのことであって、付き合いが深まるうちに「こいつ実は軽薄なヤツ」とか「こいつ頭んなかカラッポじゃん」へと、外向型に対する評価が悪い方向に変化することがないわけではない)。

このエントリはそもそも安倍氏を擁護するつもりで書いているのではない。けなすつもりもないが。

そろそろ、結論が見えんぞとのお叱りを頂戴しそうだが今しばらくお付き合いいただきたい。

内向型の人間はしばしば「突飛な行動に走る」「何を考えているか分からない」

これはおそらく事実だ。

しかし彼の行動は実は当人にとってはいたって合理的な行動だということも充分にあり得る。そしてそれが周囲の人々の目から見ても(彼の思考の理路が判明すればのはなしではあるが)合理的だと評価される可能性も残されている (その点、上記記事はこのようなことを知ってか知らずかはともかくすっぱりと切り捨てていて一面的に過ぎ説得力がない。むしろ彼らがそうしたことを知らぬはずのない「専門家」であるからこそ余りに不誠実さが際立つ)。

このことはひとまず措くとしよう。

では、あらためて。というか今回のエントリの眼目は以下。

安倍氏は常に信念の人であった。

そして「信念」とやらは、それを大事にしている当人にとっては堅固不変のものであっても、その評価は周囲の環境あるいは風向き次第で白が黒になり陽が陰となる。

安倍氏の辞任表明ののち、唐突な辞任が国民の不興を買っており(それが当然の反応だとしても)、どうやら精神的欠陥の持ち主であったが如き言説まで喋々されるに至ってはいささか奇異の念を抱かざるをえない。それは私が彼と同じ内向型だからでも安部氏の病状を知っているからでもない(そんなものほとんど全く知らない。そのての記事なんかチェックしていないのだ)。
彼を首相の座に押し上げたのは、まさしく彼の「信念に忠実な態度」を「毅然たる態度」として称揚した人々であった。万が一にもその同じ人々が彼を「KY」として非難するようなことがあればそれは余りにも主権者として情けないと言えないだろうか。信念に忠実な人は往々にして「KY」であらざるをえない。良くも悪くも。

むろん、今回ような馬鹿げた辞任という事態は想定外だ、として安倍氏に全責任を負っていただくというのもアリではあるのだろう。安倍氏も政治家としてそのくらいの覚悟はお持ちであろうから。しかしながら、今回のように「あのボンボンめ!」で済むような事態ならばともかく、一旦「国のトップ」として不適格者を担ぎ上げたが最後、その選択が招来する災厄は国民全員に降りかかってくることに思いをいたすことなく、またその時どきの「風まかせ」で軽々に選択をなせばひょっとすると自らの首を締めることになるかもしれないという自覚を持つことがなければ、いずれまた日本人は「私たちは騙されていたのだ」「一部の者が独走してやったことだ」と、荒廃した国土にしゃがみ込んで呪詛の言葉を漏らし涙をこぼすことにならないと誰が断言できるだろうか。

そして新たな自民党総裁選がもう始まっている。

誰が総裁になっても大勢は変化しないのかもしれない。しかしそれはそれとして、たとえば麻生太郎氏があの年にして漫画が好きだとしてこれを「精神の柔軟さ」だと評価することは可能だろうが、これはまた容易に「ただの馬鹿」という評価に転化することは充分考えられることだし、福田康夫氏のような一見そつのない実務家風の人が「粛々と」国民を破滅の縁に連れ出さないとは誰にも確言出来ない。

「で、結局どっちなんだよ、おまえは」

と聞かれてもちと困る。

俺はどっちでも良いしどっちになっても気色悪い、としか言えない。私はシロでもクロでもアカでもない。そしてそれは決して私の優柔不断さゆえではないと思いたい。

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