求道blog

正義の味方と正義

Posted in 警察・司法, 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2007年9月20日

ひところ秋の気配を感じて以来いささか油断していたせいかここ数日の暑さに足元を掬われた気分。日は短くなり陽射しもなんとなく鈍っているように思うのだが、暑いものは暑い。まだ夜の9時にもならんのにウトウト。

ついさっきまで死んだ魚のような眼でNHKの「クローズアップ現代」を見ていた。お題はサブプライムローン。信用度の低い人たち向けに高金利で貸し付けてハイリスクハイリターンを狙うのであるからコケるときはコケるわな、そりゃ。

当世、紳士然とした「じつは、高利貸し」はそこここにいるようだ。彼らと「文字どおりの高利貸し」(テレビとか映画に出てくるような悪相たち)の違いを探せばそれは債権回収手法の違いくらいといえよう。そして共通点はなにか。「借りた金は返さなあかんでしょ!」。これが金貸しの「正義」であるらしい。

正義といえば、TVA日の鹿爪小僧フルタチ1ロウは相変わらずシカツメらしいツラをさらしているのだろうか。私は7月の参議院選挙直前にチラとあれを見て以来アレを見ていない。見たくもないが。あの面もどうやら「正義」の匂いがする。

「ご利用は計画的に!」
「ワタクシは視聴者の皆様方の味方ですぅ!」

「おれたちゃ市民の代弁者なんだよ、オラ、分かってっか、コラ!」
「借りた金は返さなあかんだろが、あ」

二つ(三つ、四つ)の顔をその場その時次第で使い分ける連中というわけ。

貸し付けるときはエビス顔、取り立てるときは鬼の顔。

1ロウ君がどれほどテレビでもっともらしいことを喋ったとしても、彼の全身から滲みでているカメレオン臭が彼の「正論」を全て無効化していることに彼はいったいいつになったら気づくのだろうか。久米ヒロシの後を引き継いだばかりのころは、「ま、プレッシャー感じてんのかな」くらいに思っていたがその後もずうっとあの調子だったので「ああ、この人は猿だったのね」と気付いた次第。前任者の表面的なスタイルだけを猿真似するばかり。仏作って魂入れず(違うな)。

1ロウ君に限ったことでもないのかもしれないが、マスコミ連中はどうしてあんなに「正義の味方」ヅラ出来るのか私は不思議でしょうがない。それとも自分こそが「正義そのもの」なんて思ってんじゃないの?ま、そりゃ言い過ぎか。

良き法律家は悪しき隣人である、なんて言葉もあるが、それはともかくとしても自称正義の味方は間違いなく悪しき隣人である。「正義の味方」を自認したとき、その者は「正義」そのものになる。

しばし遠吠えをさせていただく。

正義は決して過たない。
正義は常に正しい。
無謬の存在こそ正義なり。
そしてまた、人間は決して無謬性を手にできない。

そして人間たちはしばしばそのような無謬性を備えた存在を「神」と呼ぶ。

「私は決して過たない」とは不遜な人間のみが語り得る言葉である。

これは個人に限らず組織にもあてはまる。
そもそも完全ならぬ人間の作った「不完全な組織」なぞが無謬でいられるはずはない。

では人間は「完全な組織」を作り得るのか。「完全無欠の組織」すなわち無謬性を備えた組織を作れるのか。それは、無理だ。

なぜなら万一にもそれが完成したとすればそれ(組織)が人間を越えた存在、無謬の存在、すなわち神となることになるからである。

結局、人間が無謬ではおれない以上、人間が作ったいかなる組織も無謬ではあり得ない。

したがって人間に残された手段は過ちを認め、そしてそれを改善することだけである。たとえそれが終わりのないシジフォスの労役であるとしても、それだけが人間に残された道である。

人間が作り出したさまざまな組織の打ち、とりわけ官庁組織は無謬性(常に過たないこと)を指向する。そしてそれは市民・国民の要請でもある。

しかし現実には、先に述べた如く無謬の組織であることは不可能である。重ねて言うが、組織にせよ人間せよ神になることはできない。そこには理想と現実との乖離がある。どれほど努力を傾けても埋め尽くすことの出来ないクレバスがある。

ところで、官庁の中でもとりわけ無謬性を要請する(される)のが警察という組織である。もちろんこれは当然の要請ではある。それというのも、生命・自由・財産の保護という人間の持つ権利のうちでも最も重要なものにかかわる組織であり、そしてまた(法的にはともかく)人々の自由・名誉・人生そのものをも左右する権能を有するという現実があり、ゆえにこれに対して無謬性を求めるのは人々にとってきわめて自然な感情といえる。

しかし、もちろんそれはかなえられることのない要請でもある。なぜならこの世に無謬の組織は存在しないからである。

しかし、決して実現することのできない「無謬への要請」に応える簡単な方法が実はある。「実はある」などと賢しらな言葉を書いてみたが「その実」なんでもないことだ。それは過ちを断固として認めないという道である。そしてこの方法は官庁、とりわけ捜査機関にとってははるかに通りやすい道である。

そして、この道を選んだ警察・捜査機関は「正義の味方」ならぬ「正義そのもの」すなわち(形式的なものではあれ)無謬の存在となる。

もちろんそれが「嘘」であることは大人であれば(誰でも)知っている。が、また多くの人が捜査機関の無謬性への願望をおそらく無意識のうちに現実のものとして見ようとしている。見たがっている。それは当然の願望なのだ。

「他の官庁の決めたことにコメントする必要はない」

神を目指す組織は他人どもの言うことにわずらわされるつもりはないらしい。たとえその「他人」がもう一人の神であっても。

神は一人だけでよい。

彼らはそう言っているのか。

オォーン

と、遠吠えはここまで。
書いているうちに長くなった。

ま、「正義の味方」はありがたい存在だが、自ら「正義の味方」を名乗る奴の中味は、まず間違いなくその言葉とは正反対のものと思ってよい。彼らは「おれは正義の味方だ」という言葉によって「おれが正義だ」と漏らしているのだ。

仮面ライダーも月光仮面も決して自らを「正義の味方」などと自称しない(違う?)。それを言うのはナレーターだったでしょ?ほんとうに正義の味方と呼んで差し支えないような存在は、自らのことを「正義の味方である」とも「おれが正義だ」とも、まず言わない(はず)。正義の味方は、悪を打ち倒しやるべきことやったあとは無言のまま(ときには弱き者に優しい言葉の一つもかけて)颯爽と立ち去るのみ。

この世に「正義」は存在しない。
正義の味方は一人称では語れない。

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コメント / トラックバック2件

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  1. 檸檬 said, on 2007年9月22日 at 2:58

    本エントリーは素晴らしいです。

    >正義の味方は、悪を打ち倒しやるべきことやっ たあとは無言のまま(ときには弱き者に優しい 言葉の一つもかけて)颯爽と立ち去るのみ。

    まったく、その通りですね。
    最近は口舌の徒ばかりが跋扈して、どうもいけません。困ったものです。

  2. UBSGW said, on 2007年9月22日 at 20:32

    檸檬さん
    またお越し下さい。
    わたし自身も単なる口舌の徒にならぬよう気を引き締めます。


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