求道blog

断コメント宣言について申し開き

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年9月25日

断コメント宣言について申し開きをしておかねば、と思いたち筆を取る。
きっかけは「この夏最後の出稼ぎツアーコメント」というエントリに対する次のような私のコメント。

いつものことながら「腑に落ちる」おはなしでした。

ただ、「ある年代から上」(あるいは下)でその労働観に差異があるというのはいかがなものでしょうか。

むろん、なんらかの差異がない、とは思いませんけれど、ただ私の知る限り、小学生や中学生ですら「誰かの役に立っている」と感じた(ような)ときにはなんともいえぬ誇らしげなえもいわれぬいい顔を見せてくれます。ですから私などはそのような感覚(人の役に立つことに喜びを感じること)は人間に本来備わっているのではないかとも思っています。

ですので私はこのエントリが主に「ある年代から上」(たとえば文藝春秋の購読者層)に向けられてるのだろうと想定することでまたまた「腑に落ち」たのでした。

ある日突然解雇を通告され使い捨てにされる若い世代の労働観が、終身雇用を前提としたいままでのそれとは違うものになっているとしても不思議なこととは思えません。しかしそれは世代間の差異というよりも多分に彼らが受けてきた教育によるものではないでしょうか。だからといって「俺をこんなふうにしたのはどこのどいつだー!」なんてのは勘弁、ですが。

ここで私は内田氏がその「差異」を生来的なものであるとしているかのように書いているが、その実、エントリ本文を読めば明らかなように、内田氏も「成人」と「若い世代」の間に生来的な労働観の差異があるとは一言も述べておられない。むしろ、

それは「受験勉強」の経験が涵養したものである。

として、労働観の差異が後天的なものだとしておられる。つまりはこの点で私の見解となんら変わるところはない。

したがって、「「ある年代から上」(あるいは下)でその労働観に差異がある」というのは明らかに私の誤読であった。

とまあ、断コメント宣言のいきさつはそんなことであります。

ついでにもう少し書き足しておく。

内田氏ご自身が文藝春秋special向けに書かれた一文は(媒体の読者層がそうであるところから推せば)おそらく「成人」向けに(つまり、それを読んで「そうなんだよな~今どきの若い連中はさ、ったく」と感想を漏らすであろう人々に向けて)書かれている。したがってその筆致は「若い世代」にとっては仮借のない、そして「成人」にとっては溜飲の下がるものになっている。
人を動かす文章とはえてしてそういうものだ。
相手の置かれている状況、思考の傾向性その他を勘案しつつ言葉を替えて相手にメッセージを伝える。ただ伝えるのみならず、相手が行動を起こすくらいに強いメッセージを放射する。
そうでなければ人は動かない。

実際のところ私の経験に徴すれば、「『自分の仕事』の境界線の外に生じたミスやトラブルを『自分の仕事』として引き受ける習慣がない」のは決して若い世代に限ったことではなく、もうあと数年で退職予定というような年配者にも(あるいは働き盛りの壮年者にも)しばしば見受けらることであった。

余談ながら、むしろ彼らのように、「今さらとやかく言われてもねぇ・・・」的な年配者は、そもそも「知らない」「習慣が身についていない」だけの若者よりもよほど始末におえない。現在・未来の自己変革に期待できる若者に希望は見出せるが、そうした一部の年配者にはもう未来がない。希望がない。どのように言い聞かせ、働きかけてももう動き出すことのないガラクタに等しい。
そしてそのようなガラクタをいまだに多数保存している最後の砦がおそらく公務員の世界だ。そしていずれ「成人の仕事」を為すことのなかった彼らさえもが他の同世代の人々と同様に、ときには退職手当債という名の借金を若い世代にしょいこませて退職金を満額支給され、ハッピーリタイアメントを迎える。

馬鹿なハナシである。

閑話休題

内田氏の文章は(ときどき)ある意味で政治的だ。挑発的ですらある。もちろんこれは否定的な評価ではなく、「人を動かす」(@D・カーネギー)言葉という意味であるが。そもそも八方美人的な文章は読むには(かろうじて)耐えることはあっても、決して人を動かすまでには至らない。

このエントリもまた、(その外見にもかかわらず)若い世代に対する「キミらこそは”まっとうな”成人になれよ」というメッセージに見えなくもない。私はそう思う。ま、誤読を重ねているかもしれないけどね。

書き終えてみていまひとつ「よっしゃよっしゃ」という気持ちが湧かないんだが、ひとまずこれにて。

広告
Tagged with:

断コメント宣言について申し開き はコメントを受け付けていません。