求道blog

絶滅危惧種の「文学」?

Posted in 雑記 by UBSGW on 2007年10月3日

もーれつア太郎・・・・・・いえ、猛烈に眠い。
ギャグをとばす余裕もない。
「んならさっさと寝ればよし」などとはおっしゃいますな。なんだか今日は、書かねばならぬような気がするので、書く。
プスリ。プスリ。

と、こう書き出すとあとが続かなくなる。「そこまでして書くのなら、いつもとちがって少しは実になることでも書くのだろ?オイ(ヒッヒヒヒ)」と、「邪魔」が耳元でささやく声が聞こえる。「書いている私」が「書こうとする私」の言葉を検閲しジャマを始める。

悪霊退散!

行きつけの某Iブログのコメントが面白い。といっても記事によっては100件近くのコメントが寄せらるようなのでとても全部は読めないんだが。で、なにが面白いのかといえば、まず「ニート関連の記事」とか「格差問題」のたぐいの記事ではコメントが激増する。で、さらにその場合、若年者とおぼしきコメントが大半を占めているのだが、その「語法」に際だった特徴がある。それをひとことでいえば「2父ねる風」。語尾につく「 wwwww」とか「・・・思われ」なんていう一目瞭然のものは言うまでもないことだが(てか「wwwww」ってどういう意味なのかね)、一見すると普通のコメントのように見えるものもある。しかしそれらにしても「普通に見えることは見える」んだが(普通のってのもヘンだが)、ちょっと読んでみると「事実らしきもの」「それらしい単語」がズラズラズラズラと並んでいて(それゆえ当初は興味を惹かれる)、でもそれだけ。それらしき単語、記事内容に関連した事実らしきものが並列しているのみで、コメント筆者の思考とか選択とか判断とかがきれいにマスキングされてしまっている。つまるところは「それは正しい」「それ間違い」ということだけを言いたげなコメントというわけ。「私の考えでは・・・」というものではないので、読む気が失せる(私の場合はね)。むろん、「私の考えでは、あなたの記事は間違いだ」などとやってしまっては結局形は変えても中身は一緒になってしまう。すくなくとも自分の意見の論拠を明確にしなくては「単発屁」から脱せない。そしてその論拠はなにも客観的データである必要は必ずしもない(「論拠は全て客観的検証に耐えるものでなければならない」という暗黙の前提が存在する業界でもない限りはね)。エッセイの類に「論拠だ、論拠を示せ」というのは痴愚の弁なり(だってエッセイなんてその人の主観の表出にこそ価値があるんだし、論拠は「おれがそう思った」というところにあるのがそもそもの前提なのだ)。算数のテストでもないんだから別に正か誤か白か黒かの結論部分よりも、なぜ自分がそれを白と思うのか(あるいは黒と思うのか)、なぜ正しいと思うのかを語ってこそ他人をして読む気にさせるというものだ。そのようなわけで、あるいは論拠云々よりも結論そのものの正誤(白黒)が大切なのか、あるいは結論よりもそれへ至るまでの道筋をわかりやすく語ることが大切なのかということを、その具体的状況を勘案して使い分けることはけっこう大切なことのように私は思う。しかしどうやら現実には、論拠とは「データソース」のことらしい。「あの本にこう書いてあった」「あの人がこう言った」果ては「社会の常識」。誰もが納得しそうな客観的体裁をとった模範解答が欲しいらしい。しかし私に言わせればそんなものは論拠にならぬ(ことが多い)。そこらで言われるデータソースなんてものは大抵の場合検証がなされておらず、かつ既に加工済みの色つきデータなんだから。思うに論拠とは究極的には、論者がどのような前提に立って立論しているのかを示すものでなければならない。逆に言えば、それが見えない「論拠」は論拠とは到底言えぬ。それが客観的な論拠(データ)なのかあるいは主観的な論拠(思考の足場)なのかは二次的な問題なのだ。論者の足場が明確に見えるていのものであるならばそれが主観的な感情であってもあるいは勘違いであっても誤報であっても論拠としては既に十分といえる。くだくだしくなったが、論拠は客観データを示せば足りるものではないしそれに尽きるものでもない、ということ。んなもんは「自然科学という宗教」の教義の一つでは?

ちなみに当の池田氏は、かつて、その手の面白みのないコメントを発する読者を「ネットイナゴ」と命名されたらしい。当の文章に即した読解をせぬまま、重箱のすみをつつき回して、なにひとつ生産的なことはせぬまま記事を食い荒らしたあげくに去っていく姿はまさに蝗。

うかつなことを書くと蝗の群れを誘い出すことになるのやもしれぬので物騒なことは書くまい。もっとも、これ以上ないほど痩せた土地にスカスカの稲穂が実を結んでいるだけの我が田畑であるから、杞憂に過ぎないだろうが。

ともあれ、間違いだらけ、事実に反すること、虚構であることによってたつ「文学」が売れなくなったのは蓋し当然と言うべきかもしれない。
「そんなもん、くだらないファンタジーじゃねえか」、とね。

仮に、文章を全体としてではなく逐語的にしか読まない、読めなくなったのだとすれば文学なんてそう遠くないうちに絶滅するだろうね。文学を世界遺産に登録するという話はまだ耳にしたことがないけれども、近いうちにそうなるのかな?

いや、そもそもネットと文学とでは棲息する種がそもそも異なるのであろうか。誰か教えて。

ん、天に唾してしまったかもしれない。

(2007年10月4日一部改稿)

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