求道blog

死ぬまで勉強

Posted in 教育 by UBSGW on 2007年11月25日

いぜん山田詠美が「ぼくは勉強ができない」なんて作品を書いた。ところで今回のエントリは文学のはなしではない。教育というか先生のことについて。

学校の教員は唾棄したくなる存在・・・であった、ような気がする。かつての私にとっては。少なくとも好ましい存在ではなかった。委細は省略(ニコッ)。

しかし「勉強」や「学校」とは疎遠になった今の私の目で見ても今の先生方は大変そうだ。ごく一部の者がしでかした不祥事で肩身の狭い思いをさせられ、痛くもない腹を探られ、管理は強化され、時世に合わせて給与は一部カット。生徒の指導にビンタのひとつも張れず(体罰ダメつのはもちろんその通りだが、ね・・・相手に手の内見抜かれてたらそりゃあやりにくいわな)、これまた一部の生徒から足元を見られて生意気こかれる。やってらんねえぜ、と言いたくもなるのかもしれぬ。むろんそうした環境であるにもかかわらず、地道に励んでおられる方もおられるだろうが。

そんなところへ持ってきて教員免許に有効期限が設けられるのだそうで。

免許の有効期間は10年。幼稚園から高校までの現職教員に更新の際、大学などが開設する講習を30時間以上受けるよう義務付け(・・・)取得から10年を経過した場合、免許状は効力停止(以下略)

教員免許更新 広がる不満 県教委「技術向上の機会」(河北新報)

技術向上の機会か。そりゃたしかにそうかもしれない。研修で少しは得られるものが(ときには)あるのだろう。しかしただでさえペーパーワークに忙殺されているらしい人たちの貴重な時間を削っても割に合うほどのものが得られるのかどうかは知らぬ。わたしの経験するところでは、お仕着せの研修・やらされる勉強から得るところは少ない、極微、皆無、時間の浪費。
「そんなことはない、それはおまえのやる気の問題だ、バカモン!!」と言われればそりゃ確かにそのとおりかもしれないが。がんらい私は教師とはソリがあわなかったので、しばしばそのように叱られた。

しかしどっちもどっちだよね。10年に一回の研修で何かが得られるというのもまあその通り、そしてやる気次第だってのもまあその通り。決してどちらも嘘ではない。正論ではある(しょうもないレベルの正論だけど)。したがって研修が役に立つ立たないなんて次元で論議してもまあ始まらない(と思っている)。むしろ気になるのは、そのような「研修の機会」、「技術向上」の機会を作ってお仕着せてやらねば今の先生たちが勉強しないのか、ということ。そうでないと思いたいところだが、これまた他の職種と同様に阿呆はどこにでもいる。一部の非行をあげつらってあまり意味のあることとは思えぬ(それがまかり通っている世相は見るも無残)。もし仮に自分なりの研鑽を積みたいと常々考えて居られる先生がおられるとすれば、その人にとってお仕着せの研修は無益であるどころがむしろ有害ではないのだろうか。ただでさえつまらないペーパーワークと会議に追われているところへさらに研修。やる気はひょっとすると無限かもしれないが時間は有限ですよ。

つまりお仕着せ研修は「勉強しなさい」と言われなければなにもしないボンクラ学生ならぬボンクラ先生にとってのみ”有益”ということになるのではないか(そんなひとがどれほどたくさんおられるのか私は知らない)。もしそうだとすれば、今の教育における大きな問題の一つは、そのような、強いられなければ己れを磨こうとしない人物が教壇の上から生徒に向かって「君たち、勉強しないか!!」と、自分を棚上げして能書きを垂れているところにあるということになろう。なぜそれが問題なのかといえば、そのような先生を日頃目前にしている生徒たちが勉学に対する意欲をかきたてられることはまずないであろうからだ。ちなみにその論拠はここにある。すなわち私自身(笑)。

つまりはこの研修、能書きはご立派だけど中身はちょっとどうかね、ということをふと思ったのでありました。10年に一度30時間ぽっちの研修で先生ヅラしてられんのなら悪いことじゃないのかもしれんが。
しかし教員の質向上をうたう文科省はどうして教員の雇用流動化を進めないのであろうか。自己研鑚の能力すらない教員なんか解雇して新しいのを入れたら良かろうに。それもだめならまた雇用。その循環が水を澄んだものにするだろう。澱んだ水は腐るのだ。公務員教師の雇用流動化策の方がちっぽけな研修よりよほど効果的だと思うのだが、
しかしこれは実現しまい。というのも文科省の役人も公務員だから。同病相憐れむ。

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