求道blog

理屈と膏薬

Posted in 警察・司法 by UBSGW on 2007年12月8日

死刑執行された受刑者の氏名公表なのだとか。「直言居士」と評判の法務大臣の強い意向なのだそうだ。なるほど、悪名高き官僚組織とはいえ事と次第によってはトップの一存で過去数十年の伝統だか旧弊もぶちこわすことができるということなのだろう。

法務省はもともと、死刑を執行した事実も公表していなかった。98年からは執行したことと、対象となった人数だけ明らかにしてきたが、氏名の公表にはかたくなな態度を崩さなかった

  朝日新聞サイト[キャッシュ]

世間の人びとからは窺い知れぬベールの向う側におかれていた死刑、死刑囚。

鳩山法相は「人数(の公表)だけではブラックボックスという感じ。法にのっとり執行していることを明らかにした方が、国民の理解を得られる」と説明(中略)「どんな罪を犯した人なのかを公表すれば、死刑執行は当然という理解が広まるはず」と法務省幹部 (同記事)

私自身は死刑制度についてとくに賛成でも反対でもない。かといって関心がないわけではないものの、正直なところよく分からないというところ。ただ、死刑制度を含んだ裁判というか司法制度に関しては強い関心を持ち続けている。この件に関して言えば、この決定そのものの可否ではなく、これを目下のところこの死刑制度というものを含んでいる日本の司法制度の「実情に即して」みると拙速ないしは愚行、蛮行とも見えなくはない。

なぜかといえば今、裁判とくに刑事裁判というものがまるで信用の置けない茶番に見えているからだ。刑訴法の精神には麻酔をかけて納戸にしまい込み、ただただ前例踏襲のやりたい放題ともいうべき取り調べが今、日本のあちらこちらで当然のようになされていることは富山・鹿児島の冤罪事件からも窺われる。周防正之の映画「それでもぼくはやってない」はそれなりのデフォルメはなされているとしても決して作り話ではない、決してない。刑事裁判制度は、ときとして茶番だ。あとで「ああ、面白かったね」だけではすまない茶番だ。信用の置けない司法システムによって裁かれんとする状況に立ち至った時に、通常なら(もっともらしい理屈から言えば)奇妙にも見える決断を迫られることもある。あった。富山冤罪はその一例であろう。司法制度に対する不信感がこれまでにないほど高まりつつあることに現法務大臣や法務省幹部がどれほど思い至っているのかいささか疑問を感じざるをえない今回の決定であった。

死刑制度以前の、司法制度そのものについてその妥当性を維持するための努力がなんら払わないでおいてやれ「ブラックボックスけしからん」というのはあまりに都合のいい話というべきだろう。そもそも今、司法制度自体がブラックボックス=非合理的システムと化しているのだから。したがって今後そうした観点からどのような施策がとられていくのか目が離せないと私は感じている。

これ以上くだくだしいことは書くまい。一言で言ってしまえばかんたんだ。

「理屈と膏薬はどこにでもつく」と、そういうことだ。

(追記)
裁判制度(司法)と警察(行政)をいっしょくたにするのは適切でないかもしれない。せめて司法官には”法の精神”を汲んでほしいものだと思っている

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