求道blog

番組の予定を変更して・・・

Posted in 社会 by UBSGW on 2007年12月16日

このブログの週末特別番組(エントリ)としてオープンソースに関するforumのことを取り上げるつもりだったが、急遽予定を変更したい。これ(オープンソース特番)については後日改めて。

また起きた。発砲事件。
暴力団のみならず一般人による発砲事件・事故までもが頻発しているようだ。つい先日は佐世保で二人が死亡、傷者多数、容疑者は自殺したとのこと。銃器による犯罪が(暴力団同士の抗争にともなうものを除外したとしても)最近になって起こるようになったわけではない。数は少ないにしろ過去にもその例はある。しかしわずか数週間のうちにこれほど立て続けに銃器による事件・事故が報ぜられた例がかつてあったのかどうかその詳しいところを私は知らない。いまのところ私はそうしたことについて何ら統計データも過去の新聞記事の類もチェックはしていない(今後する気もない)。したがって以下に書くことはすべて私個人の雑駁な印象に基づくものであるにすぎない。しかしそうであるからこそ私はここに(このブログに)書きつけておきたいと思う。

今回の佐世保事件について、私のお気に入りである新聞社のサイトを覗いてみた。なぜその新聞社のサイトがお気に入りかといえば、そこにマスコミの無節操さと驕慢と惰性を見出すことができるからである。大抵の場合は期待を裏切らずにきっと満足させてくれる、私にとっては有り難い一社だ。早速今回の事件に関する論説を読んでみた。その論旨は、まず最近起こった暴力団による一連の発砲事件に触れたうえで、今回の事件が暴力団員ではなく一般人によってひきおこされたことを指摘し、容疑者に与えられていた銃器所持許可の妥当性への強い疑念を呈して、警察庁に対し許可の厳格化を求めている。
これは暴論でも愚論でもない。いたって真っ当な論説であった。しかし最近の私はこの論のような、法や制度あるいはその運用によって事態を改善しようとする指向にいささか懐疑の念を覚えることが多い。少なくともそうした対策「のみ」によって何かが抜本的に改善するとは考えることができないでいる。
マスコミはしばしば「それでは臭い物に蓋をするだけではないか」と役所や会社を非難する。これとまったく同じ「非難」を上の論説に投げかけることはできるのではないかと思う。「臭いのなら蓋しておけばいいではないか、それでも臭うならもっとしっかり蓋しなさいよ、あなた」というのが「対策」「解決法」と呼びうるとすれば、たいていのことはいとも簡単に解決できることだろう。

たしかにこの論説もいう通り一般人の銃器所持をより厳しく規制すれば、それによって一般人の銃器による犯罪や事故は減少するだろう。ただ、その一方でいまアウトローたちによる非合法な銃器所持・使用が当然の如くなっている点を見落すわけにはいかない。

先手をうって言わせてもらえば、これはなにも銃器所持を一般人に解禁して自己防衛を認めるべきだというのではない。仮りにそうした場合、おそらく銃器犯罪は爆発的に増えることになると思われる。なぜそのように考えるのかその根拠を示せといわれても出せない。そもそも確たる根拠は無いとしか言えぬ。(まあそれでも書くよ、わたしは)

話が少し大きくなってしまうのだが、近未来の日本の姿を予測しようと思うなら、その時点ないしはほんの少し前のアメリカ合衆国に目を向けるとよい。なぜなら日本の現状はほんの少し前のアメリカの状況ときわめてよく似ているからだ。「そんなあやふななことで何か言ったつもりか」とおっしゃる方もおられるやもしれぬが、少なくとも私はそう感じている。そしてそれについて今書いている。学級崩壊、訴訟社会、その他もろもろの思考様式・・・。ざっと20年ばかり遅れてアメリカ合衆国の後ろからついていっているかのような現代日本。もし今後も日本において銃器所持が解禁されなかったとしてもその入手が容易でさえあれば、きっと日本でもショッピングセンターや学校で無差別的に銃弾をばら撒く人間が出現するだろう。

さまざまな報道によれば今の日本で既に暴力団員の銃器所持が当然の如くなっており、そしてまた現にそれを使用した犯罪が多発している。そのような状況の中、私にはもう一般人によってなされる銃器犯罪の急増という事態がすぐそこまでやって来ているような気がしている。既に、旧来のようにアウトローはアウトローたちだけの世界すなわち柵の向こう側で、そして一般人は柵のこちらがわで、(たとえそれが観念的なものにすぎないとしても)それぞれが截然と区別された世界に生活する光景は過去のものになっている。むしろ一般社会への犯罪組織の浸透という点に関しては合衆国以上に日本の方が「進んでいる」のであって、おそらく単純な銃器所持の許可要件厳格化は、有効な抑止策とは言えるにしろ事態の悪化を食い止めることは到底無理ではないか。むろんこれは私の直感にすぎない。言い訳じみるが、直感なき懐疑が新たな知見を生み出すことはまずないと思っている。

ここでふと、だいぶん以前に観たマイケル・ムーアの映画「ボウリング・フォー・コロンバイン(Bowling for Columbine)」を思い出した。コロンバイン高校で起こった無差別発砲事件に題をとり、笑いに紛らせながらもアメリカ合衆国における銃器の浸透と銃器犯罪を批判的に取り上げた映画。このコメディー風の映画においてすら、単なる銃器所持の難易が問題の本質ではないことを示唆していた。

結論なんてものはこの一文にはないが、放っておくといつまでも終わらないのでここらでキリをつけよう。もし現代の日本が少しばかり前の合衆国の姿であるとして(あるいはその仮定がそもそも誤りだとしても)、おそらくこと銃器犯罪に限って言えば、放っておけば合衆国以上に深刻な事態を招来することになる。私がそのように考えている理由は、ここまで読みとおされた方には重ねて説明せずとも了解していただけるのではないかと楽観している。

最後に付け加えておくと、佐世保での事件発生直後の情報の錯綜ぶりには非常に強い印象を受けた(「悪い」印象であったこともまたあえて念を押す必要はないと思うが)。そしてまたこの事件に関する未確認情報が次々と報じられているさなか、護衛艦しらね(これはかつて海上自衛隊主力部隊の旗艦であったと思う)艦内で火災が発生したとの報道が重なったとき、なんとも言い難い不穏な、まるで日本の崩壊を予兆しているかのような想念がちらりと私をかすめて飛びすさったことを付記しておく(火災が居住区でも調理室付近でもなく、戦闘艦としての中枢部である CIC で起こったというその

後の報道に接して再び穏やかならぬ思いがした)。

およそ未確認情報がいたずらに飛び交う社会というのは、間違いなく不穏で不安定な、危機に直面した社会であることは疑いえないのではないだろうか。この点、「またまた起こった銃撃事件」に浮かれ踊った人たちが仮にいたとすれば、彼らほど社会の情勢が見えていない人はおそらく他に誰もいないだろうと思われた。
「待て、お座り!」と主人から命じられて制せられない限りもう条件反射的に餌にむしゃぶりついてしまう生き物は、人間というよりむしろ犬に限りなく近いと言う方が、よほど人間というものを尊重した態度だと言ってよい。

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