求道blog

悪人 VS 善人

Posted in 社会 by UBSGW on 2008年4月29日

日が傾く頃にようやく目覚めた。といってもちゃんと朝飯食って新聞読んでコーヒー飲んでブログ読む、という日頃の習慣はそのまま。ただ、眠くなったら寝てまた起きてということが出来てちょっと一息つけた。それで今日の記事では、普段すぐには言葉にならないことをどうにか書き表してみようと思う(最近、そういう記事を書いていなかった)。

「悪を為す方が善を為すより楽である」
「悪人(悪貨)は善人(良貨)を駆逐する」

一言で言えばそういうことをこの頃考えることがある。「そういうことなのかもね・・・」、と。

ただ、それだけ書いても「そりゃそうさ」「だから何?」「そんなこと無い!」と言われてもやむをえないわけですね。で、ここで私の言う「悪ー善」「悪人ー善人」「悪貨ー良貨」とはどんなものかをお伝えしなければ何にもならない。が、これが私には難しいのだ。

善だの悪だのという極度に抽象的な概念は、それが古今東西を問わず普遍的な問題であるだけに、かえって人それぞれに違った風に理解され、感得され、実感される(と私は思っている)。いや、そもそも「善ー悪」という概念が「極度に抽象的である」ということそのものについて、「いや、そんなこたぁないぞ。簡単なことじゃねえか。」と仰る方もおられるであろう。まあ話を聞いてつかあさい。

話を変えてみよう。
私はいくつかのブログを愛読している。その中には、たくさんコメントがつく有名ブログもあれば、めったにコメントのつかない無名の、しかし質の高い(べつに自画自賛しているのではない。いま、自分のことはいちおう「棚の上」に置いてある。)ブログもある。だいたい私はコメントがたくさんつくブログのコメントを精読することはめったにしない(出来ない。根気がないからね)。それでもたまには読む。そしてそこにもまた世間一般と同様の現象を見る(当然の事ではあるが)。見るに耐えないコメントにも色々あるが、それらについてくだくだしく書いても気分が悪くなるだけで(私にとって)良いことは一つも無いので、さっさと一言で済ますとすれば、「汚い」。
これでは説明にならぬだろうか・・・・。

人が排泄物を汚いと感じるのは生来のものではなく習慣・教育によるものだとどこかで聞いた気がする。それはそれで「そうかもね」と思う。ただ、ここで一言言わせてもらえるなら言おう。「汚いものは汚い」。「汚いもの」の定義はこうだ。
—— 自分に向かって投げつけられたくないもの ——-
それが「汚いもの」の、私(わたくし)的定義である。

仮に「人が排泄物を汚いと感じる心性は教育によるものだ」ということが真実であるとしても、「汚いものも実は汚くはないのだ」「汚いという感性はひとそれぞれなのだぁ!!文句あっか?」ということにはならない。やっぱり汚いものは汚いのである。また、「汚い」と感じる感性が微妙なところで人それであるにしても、それを「それは君の主観だよ(遅れてるねぇ、分かってないねぇ)」といって汚いものを投げつけられてはたまらない。それこそ、「人が節度を知らないとすればそれは教育によるものである」(原典不知)。

私の観察するところ、既に節度というものは絶滅の危惧される、あんだーぐらうんどな、稀少種になりかけているように思われる。それどころか節度を持った人間が生きにくい社会になりつつある。”排泄物と教育”の伝で言えば、自己の権利を声高に(堂々と)主張し、他人を出し抜いて(機を捉えて)利益を得、何かにつけて我が身に都合の良い部分だけを都合の良いように解釈することが人としての正しい生き方だという教育を施された人々にとって、(ときには)自己の権利を敢えて放棄し(ときには)自己犠牲によって全体の利益を図るなどということは、人が「排泄物こそ美しい!」と感じるほどに難事だということになる。

ところで、節度のある人ならこんなことを書かこともなく黙って耐えるなりサラリと流すのだろう。

と、ここまで書いたらxfy blog editor上で日本語が入力できなくなった。つまらぬことは言うな、という天の啓示だろうか。中途半端になった気もするが、きょうはここまで。

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