求道blog

売り文句に見る世相

Posted in 雑記 by UBSGW on 2009年1月12日

先日、ジョージ・ソロスの『ソロスは警告する』(原題:The New Paradigm for Financial Markets)に巻かれていた帯文その他にうんざりしたことをこのブログに書いた。いったい何にうんざりしたのか一言で示せば、それは著者の視座と訳者・解説者の視座の隔たり大きさに一人の「ニッポンジン」として、いささか幻滅を覚えたからだ。この本の中で著者は、彼の経験の中からなにがしか本質的なものをくみ取ろうと格闘している。彼は、おそらく(その当否はさておき)彼の人生におけるさまざまな主観的体験・客観的現象のうちから本質的なものを(彼なりに)読み取ろうとする姿勢を一貫して持ち続けているようだ。それに引き比べて、日本人によってこの本に付された解説その他はどうか。私はここで、その余りの不毛さに一驚したことを告白する。やれカリスマだ、ベストセラーだ、はては市場経済への過度の依存が・・・云々と、テレビだか週刊誌だか3chだかで見るような、思いつきの、ありふれた、うわっつらばかりの文句ばかりがズラズラと並べ立てられている(その一部がamazonにも載っている)。私としてはそうしたものに別に文句を付けるつもりはない。それはそれ、これはこれとして当意即妙・適材適所をよろこぶものであるがしかし、よりによって自称「挫折した哲学者」の本にその手の解説・売り文句はあんまりだろうと思ったのであった。しかしこれもまたそれはそれこれはこれで、ま、べつに構わないと言えば構わない。ただ、そのようなものを食傷するほどに見聞きしつつあり、正直なところうんざりしかけている。だいたい何だね、最近の帯文の無茶苦茶なこと、目に余る。そういえば、先日読んだ福田恆存の文庫版『人間・この劇的なるもの』の帯文には太文字で”恋愛の書!”とあったことを思い出す。本屋の店先であの福田がいつそんな本書いたのカネ?とちらりと思ったが(帯文にある恋だの愛だのの安っぽい売り文句に惹かれて本を買うような人にとって福田の文はまず間違いなく「ウザい」「ダサい」「クドい」と思う)、何のことはなかった、巻末解説のさらに後に付け加えられた一評論家の一文の末尾に「だからこそ、『人間・この劇的なるもの』は、若者たちにますます必要な人生の書、いや恋愛の書だと思う」とあったところから来たらしい。それもこの一文は、この評論家氏の(福田の著作に関する)きわめて個人的な思い出ばなしなのであって、福田の書いたものとのつながりは無きに等しい(むろんそれはそれで全然問題はない)。問題は(というか鼻につくのは)、そうした枝葉の言葉尻(同義反復だな)をつかまえてさもこの福田の本が”恋愛の書”だと見せかける腐れ根性・・・、もとい逞しい商魂と、そのような姑息な真似をしなければこの本が売れない(のかもしれない)現代日本の世相というか、ま、何かしら腐臭らしきものを嗅がされる気分になったのだった。すんません、小生、箸が転んでも腹が立つ奴ですねん。すまんの。それにしたって、「大の男」に「ミニスカート」はかせるような真似はやめようぜ。三文小説じゃないんだし。などと書く必要はあまりないか。つまらない帯なんぞゴミ箱に棄てればそれですむこと。いやあ、分かっちゃいるけどね。あ、日本の本、読まなきゃ良いのか。読むなら古典、買うなら洋書、ほんとそれでいいのか?
などと、くどくど書いてみたが、助走だけで終わってしまった感なきにしもあらず。

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コメント / トラックバック2件

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  1. Mark W. Waterman said, on 2009年1月14日 at 2:08

    帯文って不思議ですね。日本の本にしかありません。
    あれって実は結構印刷製本コストが掛かってるんです。折りたたんで栞の代わりにはなるかもしれませんが、役に立つどころか逆効果もあるのですね。

  2. UBSGW said, on 2009年1月14日 at 2:27

    >帯文って不思議ですね。日本の本にしかありません。
    そうなのですね。どんないきさつから始まったのでせうね。

    ところで、気の利いた帯文だろうとダサい帯文だろうと、10年20年以上も経ってから見てみれば、その時代の空気が感じられそうにも思いはしているのです。
    しかしそれでも、結構なコストがかかるのならいま少し練られた帯文にして欲しい・・・(贅沢?)。もったいない。


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