求道blog

ひかれ者の小唄

Posted in 報道・ジャーナリズム by UBSGW on 2009年8月17日

今日は新聞休刊日であった。”紀元前”(Before ChristならぬBefore InfomationTechnologyとでもいおうか)の頃は新聞がないとちょっと退屈したものだったが今は新聞が無くても何一つ支障がない。むしろ「lこれから新聞どうなんだろね〜(?)」などということをつらつら考える暇が出来て結構なことだとさえ思う。そして、新聞社の未来に関してはそれほど頭をひねるまでもなく結論は見えていると思う。「残るところだけ残って残らないところは残らない」、とね。どこが結論なんだかね、とも思われようが、100年後200年後の遠い未来はともかくとして、向こう数十年(新聞・書籍諸々の紙媒体に慣れ親しんだ人たちが存命のあいだ)くらいはまだまだ新聞だって読まれると思っている。

とはいえそれが「新聞だから」というだけで生き残れるはずもないのは当然のことと言える。いったいに書籍が書籍であるだけでは到底生き残れない(絶版にならずには済まない)のと同様、単に新聞であるからいうだけでいったい誰がそれを読むだろうか。これはなにも書籍や新聞といった紙媒体のものに限った話ではない。たとえ紙媒体であろうと電子媒体であろうと、面白いと思えるものでなければ(読んでみようという興味を喚起できるものでなければ)それが多くの人たちに読まれることはまず無い。現在の状況は一部紙媒体の嘆きほどには電子媒体が優勢というわけではない。むしろ変化はこれからであり、近い将来には媒体が何であろうと読者の好みで媒体が選択されることになるだろう(※1)。

と、このテのハナシはとうにネット上のあちこちで言い尽くされていることではある。たとえばこれとか(TechCrunch日本語版)。しかし一方では、紙媒体に携わっている人たちの、「手間暇かけた記事を書いてもネットに収奪されるばかりでやってらんね〜」みたいな声もちらほら聞こえていて、なかにはわざわざネット上で名の通った(らしい)人物にその主張を代弁(代筆)させているかのようなものもある。たとえばこれとか(「グーグル情報革命の崩壊」 http://news.goo.ne.jp/article/php/business/php-20090817-01.html)(※2)。

インターネット上のポータルサイトが自社(既存の新聞社・通信社)の記事を安値が買いたたいてカスリを取ってるかのような主張(というか泣き言)は、言ってみれば「うちの社の業績が悪いのはライバル社が仕事を掠め取っているからだ」とでも言っているようなもの、「(学校で)俺の成績(順位)が低いのはあいつの成績が良すぎるからだ」とでも言っているようなものではないか。そこには「もしや俺のやること・書くこと、的外れかも」という自省がないように見える。実際、民放テレビ局は言うまでもなく、また全国紙・地方紙問わず新聞社の記事も読むに足りない(一読してそのまま忘却してしまう程度の)記事がほとんどであることは言うまでもない。少なくとも私にとってはそうである。

ではなぜ既存のマスコミの記事に読むべきものが少ないのかということも一考には値するが、ここではネットと既存マスコミとの関係に焦点を絞って考えてみたい。言葉を換えれば、同一内容の記事であるならば新聞ではなくネットで見る(読む)方がマシな理由は何かということだ。その答えは、身も蓋もないようだけど「無料(タダ)だから」の一言に尽きる。今一歩踏み込んで言えば、対価を払ってまで読みたいとは思わないような記事(=情報)は無料で読みたい、読めばいい、ということになろうか。そうした志向がインターネットの普及によって実現したとも言える。つまりあるべき形(適正価格)に戻っただけのことだということである。

実際に新聞を手に取ってみれば分かるように、紙面の5割ないしそれ以上の部分は単なる広告だし、記事にしても一切合切が自分の求めていた情報であるなどということはまずない(私の場合で言えば、切り抜いて保存しておきたい記事が1週間1カ月のうちに多くても二つか三つくらいのもの)。記事の多くは(3面記事を筆頭として)企業官公署のプレスリリースに基づくもので、全紙面を通じてもその中に記者が主体的に取材し検討し分析した跡の見えるものはごく少ない。確かにインターネット普及以前であればそれなりに報道媒体としての価値はあったのかもしれないが、つまるところそれは単にヨリ適当な媒体が無かったからというだけのことに過ぎない。しかしインターネットが広く普及した(しつつある)現状に即して言えば、社会にとって(人々にとって)既に既存マスコミを「媒体」とする必要性はほとんどない。もう少し正確を期して言えば、単なるプレスリリースを既存のマスコミの手で配信してもらう必要性はない、ということだ。単なる「広報」「プレスリリース」程度のものは企業官公署から直接インターネットを通じて広く一般に配信してもらうことは可能であって、そしてそれでもう必要にして十分なのだからいまさら新聞社・テレビ局を通すまでもないことでもあり、ましてそんなことに購読料その他の費用を支出するのは無駄だと言える。

ところで、こうした見方に反論する場合の既存マスコミの常套句は、「大量の情報を毎日さばくことは無理でしょ、情報を整理し・分析し・手元に届けることに新聞社(既存マスコミ)の存在意義があるのだよ」といったもののようだ。これに一理あるとしても、ではその情報が金銭(対価)を支払ってまで読みたいものか・読むべきものかどうかは全く次元の異なったハナシであるし、そもそもその整理(記事の取捨選択)や分析にしてが、既存のマスコミは既にそれを任せてもよいと思わせるだけの社会的信用を失っている。実際のところ、排他的な記者クラブ制度によって役所や企業に囲われ取り込まれ、企業官公署の広報部門の一つになっているかにも見え、つまらぬことに大騒ぎし、報道内容に関して責任を負うことを巧妙に回避し、書いているものに気迫も覚悟も機知もユーモアも感じることの出来ない程度のものしか提供できないマスコミにいったい誰が自身の情報ポータルとしての役割を任せると思うのか、甚だ疑問に思う。そのようなわけで、既存のマスコミはインターネットポータルサイトに搾取され追い込まれているなどとわめく暇に、そこのところをもう一度よく考えてみてはどうかと思うのだが、そうこうするうちに、彼らはますますインターネットに押され追い込まれ、それまで以上に中身のない「水増しコンテンツ」を乱発し、情報としての価値に疑問符のつく愚にもつかない情報を、まるでガマの油売りよろしく「見て見て」「買って買って」とやることで悪循環に嵌りこんでいる。

まだまだPCを充分に使えない人だって多いじゃないかと言う向きもあろうから、デジタルデバイドについて一言つけくわえるとすれば、新聞の購読料1年分でネットブック1台買える時代なんだから、あとは時間の問題だよ、ということくらいだろうか。新聞の再販制度を見直せば購読料3年分くらいになるのかもしれない。しかし仮に新聞の購読料が3割引6割引になっても、コンテンツの質そのものが変わらないなら新聞社のジリ貧は火を見るより明らかだろう。実際、無い方が良いような新聞社はいくらもある。一例を言えば、都道府県毎の新聞。こんなものは必要ない。(※3)

情報は誰のものか。当人のものなり。新聞社でもポータルサイトでもない、媒体ではなくて受信者のものなり。
「情報」についてはいずれ調べてみる予定。深みにハマりそうだけど。
結局、「引かれ者の小唄」ではなくなっちまった。

※1 たしかに現状では、PCをまったく使わない人、使うことを好まない人もまだまだおられるだろうから(実際、宅配新聞の購読者の年齢層は年々高くなっているそうな)、いずれそうしたデジタル(情報)格差は極小化するはずだということでひとまず未来形にしておく。

※2 ここでは、「リンクしない」=「共感できるところが無い」ということ(それどころかその支離滅裂さ加減が奇妙な意図すら想像させる文章なり)。

※3 記事は通信社配信記事か土建屋の設立ウン十周年のお知らせ広告か(密かな)政治的肩入れ記事か高校野球の県勢試合結果か自社イベントの宣伝くらいしか掲載されていなことがほとんどだから、まぁせめて「新聞社」ではなく「過藁版」とでも名乗るべきかと思う。もしそうでないなら存続の余地はあるか。

関連エントリ:(メモ)報道の自由とマスメディアの現状

(追記)
各記事の最下段の表示が乱れてます。そのうち修正します。(修正済)
(追記2)
2009年8月18日午前一部加筆修正

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