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維新は遠くなりにけり

Posted in 雑記, 政治 by UBSGW on 2010年1月7日

杉山茂丸の著した『百魔』をようやく読み終えた。800ページを軽く超える人物誌はまるでスルメのように味わい深く、晩酌片手に読むには好適な一冊であった。1864年生まれの杉山が、彼の破天荒な生涯において関わりを持った有名無名の人物について手当たり次第に書き附けている。頭山満から始って、平岡浩太郎、品川弥二郎、星一、後藤猛太郎(象二郎の息子)・・・・・・と延々講談調で続いてゆく(なんでも留置場で同房者から講談を学んだ由)。ざっと勘定してみるとこの本の八割方はほぼ無名の人物について書かれている。無位無冠無職を誇った杉山の書いたものであることを考えれば当然なれど、日経新聞の「私の履歴書」とは全く趣きを異にする(当然です)。

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ところで最近大河ドラマ(幕末もの)が人気だとか耳にした(正確には、目にした)。総理大臣が国会冒頭「維新」を口にする時勢であることを考えれば、まぁそういうこともあるかもね、と思わぬでもない。私自身はNHKの大河ドラマを最後に見たのが何時なのか記憶にない。いまちょっとだけ思案してみれば、どうやら最後に(まともに)見た大河ドラマは太平洋戦争当時の日系アメリカ人を主人公とした「山河燃ゆ」(山崎豐子原作)だったような気がする。このドラマは1984年放送(Wikipediaで調べた)ということなので四半世紀前になる(まともな調べ物には頼りに出来ないWikipediaもことテレビや映画の記録としては大変便利で有り難い)。では何故に幕末・維新・時代劇を面白いと思えない私が昭和前半の歴史ドラマに多大の興味を覚えるのかをつらつら考えてみた。そしてひとまず達した結論はというと、時代劇(含む幕末もの)にはいわゆる「市民」が登場しないからつまらない、ということだ。

時代劇と云えばまあ御武家様が主役である。悪代官(これも御武家サマ)と結託する商人やら虐げられる百姓がほんの取るに足らない「その他大勢」として登場することはあっても端役はどこまでいっても端役でしかない。維新の元勲のように「御一新」以前は郷士だとか何だとかとして抑圧された人たちが主役であった場合も、その彼等の眼中には国家や天皇の行く末はあれど下々の名も無き百姓(ひゃくせい)は無いかの如きにしか描かれない(実際の所どうだったのかは知らない、もちろん)。一方で昭和前半の「軍国主義」の時代にあっては士農工商関係なく(まさしく十把一絡げに)国家というか社会というか集団化圧力というかそいういうものに大なり小なり抑圧される、と。つまりもし私がその当時に生きていたならば、(ただの土百姓である)私自身もまた無関係ではいられなかったわけだ。その相違点にこそ、私が明治以前の時代劇と昭和前半を扱うドラマとにそれぞれ共感を持ってみることの出来ない理由・出来る理由があるような気がするのであった。そんなわけで、維新がどうとか革命がどうとか戲れごとを言っている足下で「誰と言うことの出来ない”力”」が着実にそしてますます力を増していることを自分以外の人たちが今どのように考えているのかを私は是非知りたい、というか興味津々な今日この頃であります。つい最近のNHKドラマ「気骨の判決」を見逃したのが悔まれる。

以下ついでに。
開府以来300年もとい60余年の長きにわたり国政を預かってきた徳川幕府もとい自民党の支配の下、武士であって武士でない郷士もとい国会議員であって国会議員でなかった非自民諸政党が、経済発展の頭打ち人口構成の大変化という未曾有の国難に加うるに黒船もといグローバル経済の衝撃を奇貨として新たな政権を打ち立てることに成功した、と(あぁ息が切れた・・・)。で、ついつい維新の志士のイメージに自らの姿を重ねてしまうのであろうか、ね。
で、どうすんだ?

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