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「売国奴」と対話について

Posted in 政治 by UBSGW on 2010年4月10日

1945年の敗戦ののち、ふたたび「売国」とか「売国奴」などという言葉が公然と口にされるようになったのはいったい何時ごろであったろうか。幸か不幸かまだそれほど昔のことではないと私は感じているが、とりわけ昨年(2009年)9月の民主党政権誕生(つまり自民党の下野)以来、こうした言葉が何の躊躇いもなく口にされるようになってきているように思うがみなさんはどう思われるだろうか。わずか三年ほどの間に世論調査という人気投票の如きあやふやな民意を背景に安倍・福田・麻生政権と続いた自民党政権末期には、既に「国益」という言葉が主立った政治家・官僚によって(私の見聞した限りでは)かなり無雜作に用いられるようになっていた。いっぽうで、政権が民主党に移ったのち、一部で「革命」だの「革新」だのという、見方によっては物騷な言葉がなんの躊躇もなく口にされることもまた、私には何とはなしに苦々しく感じられるのは事実ではあるが、その青臭さに辟易することはあってもまだ「売国」などという言葉のもつ狂信的な臭いの耐え難さに比べればはるかにマシではある。

はなしを分かり易くする為に、ひとつの例として次の新聞記事を引用してみる。記事のタイトルは「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」だそうである。

反民主党を旗印に掲げる新党「たちあがれ日本」の結党記者会見が10日午後、東京都内のホテルで開かれた。
代表に就いた平沼赳夫・元経済産業相は「今行われている民主党政権による政治は、この国をダメにしてしまうのではないか」と語り、反民主の姿勢を鮮明にした。
民主党の政策について「売国的な法案が羅列されていて、それをいま表面に出してきている。断じて、我が日本のために、野放図に許してはならない」と厳しく批判した。
(以下略)

「売国的な法案許さぬ…平沼新党旗揚げ会見」YOMIURI ONLINE(2010年4月10日)
なお、この平沼某氏が「売国的な法案」として批判しているのはおそらく外国人地方参政権法案のたぐいであろうと思われるが、このエントリで主題としたいのはあくまでも語法そのもの、すなわち自らが賛成しかねる意見・言説に対する批判の語法そのものであることを念のためお断りした上ではなしを進めてみたい。

大辞林によればそもそも「売国」とは「自国に不利で敵国の利益になることをして私利を図ること」をいうのだそうだが、「売国」という言葉の意味を確認してみた時点で最早この平沼某氏はほんとうにその言葉の意味を理解しつつ公の場でそれを口の端に載せたのかどうか怪しいものだと思わざるを得ない。売国が敵国の利益を図ることなのであれば、はたして現時点で公の場で日本にとっての敵国と呼ぶべき国はどこの国のことなのであろうか。現在のところ、日本にとっての敵国と呼称され得る可能性のある国と言えば(大胆に見積ったとしても)北朝鮮くらいしか思いつかないが、当の国にしたところで未だ、公人が、公の場で、「敵国である」と公言することが妥当であると衆目一致しているとまでは言えないように私には思われるが、どうだろうか。さらに言えば、そもそも「敵国」とは大辞林によると「戦争をしている相手の国」であるそうである。そうであるならば、現に日本が戦争を遂行している相手国が存在しない以上は(少なくとも論理的には)「売国」という行為は存在し得ないということになる。なおここでは、何故平沼某氏がそこで論理的にはあり得ないはずの「売国」という言葉を用いたのか、その真意を文面からあれこれ推量することはしない。しかしひとつ明確に言えることは、あれこれ考えるまでもなく「売国」という言葉が一種の詈り言葉であるということである。「非国民」「アカ」「チャンコロ」などという言葉と同程度に汚い言葉であって、自分を持ち上げ他を貶める夜郎自大な言葉である。私は、平沼某氏はまず政策云々以前にデモクラシーとは何かを考えてみた方が良い、と思っている。

さて、ここまでの文章をいったい何人の方に読み通していただけたであろうか。そしてもし読み通してくださった方がいたとして、ここで私の言わんとするところを理解していただけたであろうか。なかには「売国という言葉の字義を以て平沼某氏の発言を曲解しているだけではないか」あるいは「こいつは北朝鮮シンパか?」と感じられた方がおられるかもしれない。その場合、私がこの文章を書いた目的の半分は果たされたと言っても良い。なぜならば、たしかにここで私が述べたことは、ただその曖昧さあるいは趣旨の読み取りにくさという点では平沼某氏の言葉とさして変わらないのかもしれない。しかしながら少なくとも私は平沼氏をキチガイであるとか国会議員として不適であるとは言っていないし、彼が極右であるとも断定していない。私がそうした断定を避ける理由は、「キチガイ」「極右」という言葉(こうした言葉は、平沼某氏が用いた「売国」という言葉と同様に汚い言葉である)にはそれ自体に否定的な意味、より広く言えば或る種の「価値判断」を含んでおり、そのような「否定的な言葉」が用いられる対話、「(個人的な)価値判断」を不動の前提としてなされる対話から得られるものは通常ごく僅か乃至皆無であるというのが通例であるからだ。

たとえば、もし私がここでいささか意味不明なことを述べ立てたのだとして、誰かに「あなたの言うことはつまり○○なのか?」と問われたならば私は「そう、その通り」「いや、そうではありません」と答えた上で改めて相手に私の真意を伝えることができる(少なくとも伝えようとすることは可能である)。しかしもし「○○としか読みようがないぞ!」「○○という意味ならもっとちゃんと(初めからそうと分るように)書け!バカめ」とでも言われれば、私には「いやあ、違うもんは違うし・・・」「いや、もう書いちゃったし・・・」とでも言うほかはなく、そういう人とまともに対話をすることはたぶん不可能である(もちろんわかりにくい文章読みにくい文章はそもそも親切さに欠けるとはたしかに言える)。

「売国的」という言葉はまっとうな対話に適した言葉では全くない。それは対等な議論によって結論を導くというデモクラシー(民主政治)とは相容れない言葉である。そしてそうした言葉が、まがりなりにも民主的な国家であるとされている日本で公然と口にされるということが、私の眼には日本の民主制が壊れつつある(あるいは既に壊れてしまっている)ことの徴(しるし)だと映るのである。

私の言わんとするところは、なにも辞書に書かれたとおりの「正しい」言葉を使いましょうなどということでは無い。「開かれた言葉」「開かれた対話ができるような言葉遣い」というものがあるのではないかということ、そして平沼某氏のくだんの言葉はその種の「対話に適した」言葉ではないのではないかということを言いたかったのである。「開かれた言葉」「開かれた対話」を志す限りは、仮に平沼某氏が辞書にはない意味で「売国」という言葉を用いたのだとしても、その意味するところは対話によって自ずと明確なものになるだろう。しかしその「売国」という言葉そのものが既に「閉じられて」おり、対話には用いることの出来ない言葉であるのではないかということ、そしてそうした言葉を用いる平沼某氏は、ひょっとすると誰かに何かを訴えているようでいて、その実は「対話」を拒絶する反民主主義者だと自ら称しているのではないかということなのである。

「開かれた言葉」によってなされる「開かれた対話」こそがデモクラシーの礎であり、何が正しいのかを議論によって決しましょうと言うのがデモクラシーであるとすれば、議論の初めから一方が自らの正しさを前提としその撤回を断固拒否することはそれ自体が既にデモクラシーに反するのではないか。相手を売国奴と罵ることは相手を「敵」であると措定し、そこから当然に相手との妥協を断固拒否することと表裏一体であって、軍人ならぬ政治家の振舞いではもはやない。それとも平沼某氏は「売国奴」に対してすら妥協してしまうような「政治家」なのであろうか。

(2010年4月11日一部改稿)
(2011年9月4日字句修正)

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コメント / トラックバック2件

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  1. Mark Waterman said, on 2010年4月12日 at 12:30

    ここまでどころか改稿の終りまで読んでますが、私などは日常的に断定的でキチガイを連発していますので反省しなければならないようです。

    政治の場では確かに対話が成立しなければ民主主義も何もないのですが、日常の生活では「対話」が徒労であることをますます実感するこの頃です。頑固さが年々増すというか。老化ですね。そうすると政治というのは老化させてはならない、と。

  2. UBSGW said, on 2010年4月12日 at 22:56

    >日常の生活では「対話」が徒労であることをますます実感

    私もそういう徒労感を感じることはあります。対話が成立つにふさわしい「時・場所・相手」というのは厳然としてあるのでしょうし、それはまた「キチガイ」的な言葉が飛び出しても対話の成立つ可能性を残しているとは言えそうです。

    私は必ずしも政治に若さや柔軟さを求める者ではありません。むしろ目下の日本では誰がなんと言おうと護るべき原則というかポリシー(?)が見失われているような気がしています(つまり頑固さが欠けている、と)。それというのも、一例を言えば、もし日本が民主主義を以てそのポリシーとするのならば、あまりにも偏頗な(国内の)言動は厳しく指弾されるべきでしょうし、また非民主主義的な国々とは外交上しかるべき距離をおくのが理にかなっているはずですが、そうは見えないこともあるからです。(そもそも日本という国自体がいまだ非民主的な国であるがゆえに周囲の状況がちゃんと見えていないのかもしれません)


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