求道blog

ユング『現在と未来』より

Posted in 人間心理 by UBSGW on 2008年9月25日

先日のエントリでふれたユングの『現在と未来』についてはいずれ改めて書くつもりだが、それに先だって概要を記しておく。私の手元にあるものは松代洋一編訳の『現在と未来』(平凡社ライブラリー、1996)。この訳書の巻頭には、1979年に刊行された『ユングの文明論』(思索社)の改題・改訂版であると記されている。
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この本のどこがそんなに面白いのか」を書きたいのだが、それがなかなか書けないので、ここに編訳者のあとがき等を除いた目次の概要だけ記すことにし、当面は読者のご想像にお任せしたい。

  • 現代史に寄せて(Aufsaetze zur Zeitgeschichte)
    • はじめに
    • ヴォータン
    • 破局のあとで
    • おわりに
  • 影との戦い(The Fight with the Shadow)
  • インドの夢見る世界(The dreamlike world of India)
  • インドに教わること(What India can teach us)
  • ヨーガと西洋(Yoga und Westen)
  • 現在と未来(Gegenwart und Zukunft)
    • 現代社会における個人の危機
    • 集団化の補償としての宗教
    • 宗教問題に対する西欧の態度
    • 個人の自己理解
    • 世界観と心理学のものの見方
    • 自己認識
    • 自己認識の意味

どうですか。面白そうデアリマショウ??
折り目・傍線だらけの本の中からパッと開いた箇所を抜粋してみる。

人間は満足を知らない動物である。たとえすべての労働者が自動車を持ったとしても、やはり生活を切りつめたプロレタリアでしかないのは、まわりを見廻せば自動車を二台持ち、浴室をもう一つ持っている人がいるからだ。

『現在と未来』213ページ(「宗教問題に対する西欧の態度」)

教会は伝統的で集団的な信仰を代表しているわけだが、それも信者の大多数にあっては、自分自身の内面的な体験に支えられたものではなく、単なる無反省な信念であるにすぎない。反省しはじめたとたんに、いともあっさり信念をなくしてしまうのはよくあるとおりである。

同 215ページ
初出・原題なども併せて記しておけば他の方にも便利だろうと思いはするのですが、今日は時間がとれないので後ほど追記しておくつもり。

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(メモ)役人の眼

Posted in 人間心理 by UBSGW on 2008年7月5日

なにが説得力があるといって、自分で吐いた嘘を自分で信じている場合にしくものはない。自分ではこれが善だと思いこんでいる悪行やたくらみも同様である。

C・G・ユング「破局のあとで」(原題 :Nach der Katastrophe) ~同『現在と未来』平凡社ライブラリー 1996 所収

自らの嘘を真実と思い定め或いは自己省察を欠いた人間の眼は、どれもよく似ている。

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ウィルソン『ユング』と「劇場特区」

Posted in 人間心理 by UBSGW on 2007年2月2日

読了。

作家コリン・ウィルソンによるユング論。
ユングの生涯を通覧しつつ、その思想や人間性を(どちらかといえば)批判的に考察している。著者によればユングは権威主義的性格であったあるいは女癖が悪くて奥さんを困らせた、自身のオカルティズム指向を学術的論述スタイルで隠蔽しようとした等々・・・けっこう辛辣(ついでに言えばフロイトに対してもかなり辛辣な評価を下している)。
とはいえ単なるユング批判というわけではない。ウィルソンはおそらく、ユングが目指そうとした場所に彼自身もまた(ユングとは別の理路・方法を用いて)たどりつこうと試みている。当然のことながらユングと関わるフロイト、ジャネ、アドラーらへもそれなりに目配りがなされている(ウィルソンの言い分には賛否両論だろうけれど)。

特にこの本で目立つところは、ウィルソンがユングのオカルト指向を度々批判している点なのだけれど、その趣旨はといえばオカルティズムそのものへの批判というのではなく、自らのオカルティズムに関する考察をことさらに「科学的」「学術的」に見せようとしたユングの姿勢に対する批判であった。言い換えてみれば、オカルト指向である一方でアカデミックな体裁に最後まで固執(学者としては当然のことだが)した”学者”ユングを、”作家”ウィルソンが責めているというものであった。

ラテン語で「隠されたもの」を意味するオカルト。たしか1980年代頃にちょっとしたブームがあったかに記憶している。UFOとかナスカの地上絵とか・・・。「ムー」とかいう雑誌が当時あったはずだが、今もまだあるのかな?
もっともこのオカルトという言葉、最近はとんと耳にすることが少ない気がするのだが、それでも言葉の本来の意味である「隠されたもの」への興味は相変わらず尽きることがないようだ。
かつては宗教や世界観などといった形而上的なものに向かっていたオカルト指向は、いまは個人や組織のもつプライバシー・秘密・隠しごとに向かって集中しているようにも思われる。おそらくその非科学性ゆえに相手にされることはなかったオカルティズムはいま、形を変えてわたしたちの日常生活のいたるところに(相変わらず)散在している。
恐らくウィルソンに言わせれば、現代の「オカルティストたち」もまたユングと同様に、自らの非科学性を一見すると科学的・合理的に見える衣で覆っているのだ。もっとも、自らの非合理性に(おそらく)気づいていない現代人に比べれてみれば、少なくともオカルティズムが「非科学的である」と認識していたユングはまさに自分の限界性に自覚的であったという意味で「賢者」なのだろう。

結論。やはりユングは歴史の教科書に名を残すだけのことをなしたのだ。
ウィルソンの見解もまた一興。ものの見方の多様性は常に尊重されて然るべきだろうしね。

ところで
厚生大臣閣下の「産む機械」発言が尾を引いてますね。当然といえば当然だろうが。これがもし政治家でなくただのおじさんの暴言ならなにごともなかったのでしょうけどね。
(もっとも、もし今回の発言が「男は給料稼ぐ機械」といったものだったらばこれほど責められただろうか。かなり疑問。)

不用意な大臣閣下はひとまずおくとして、もうひとつ今回の一件から感じることが一つ。たしかに「機械論的認識でケシカラン」というのもわからなくはないけれど(わからなくはないけれど)、そこに、ケシカラン発言を「機械論的」に責める”幅のなさ””機械的思考”をそこはかとなく感じる(こともある)昨今。

いっそ試しにどこかの自治体が「劇場特区」「フィクション特区」をつくったらどうだろうか。
そこでは差別用語言い放題、日頃言えないやれないアンナ事コンナ事すべてOK。まぁ暴力沙汰は後を引くので禁忌としてさ。けっこう人を呼べるのでは(財政破綻した夕張市あたりならば「まぁ大変な最中だから細かいことは言わんとこ。がんばってみな」くらいの鷹揚さで認められないだろうか?)。

すべての規範を忘れられる、そんな「劇場」、「フィクションを前提とした場」があれば、現実の社会もちょびっとだけ過ごしやすく・・・ならないもんだろか。夢想・・・。

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