求道blog

老子のテクストを連載する

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2008年12月3日

昨年の冬籠もり中、エドウィン・フィッシャーの『音楽を愛する友へ』を読んだことをきっかけに、ぼつぼつと老子を読み返していた。老子の白文・書き下し文・私訳を書き留める作業をやっていたが、81章中61章まで終えたところで停滞したまま、どうやら越年しそうであるので、この際このブログに掲載して通読を果たそうと思いたった。また、ブログの移転によりサイト自体の文字コードが漢字表記に適したものになったことでもあり「ブログ移転記念(!)」との含みもある。
ところで、老子に関しては、無学非才の私ごときがそのようなことをせずとも、既に(書籍はおろか)ネット上にも見るべきテクストが複数存在するので、いちおう個人的メモとして順次掲載することにする(よって随時、訂正加筆することもある)。

  • 白文の改行は文意に随い恣意的に行つた。
  • 書下し文は参考文献も参照しつつ恣意的に改変している。
  • 参考文献:松枝・竹内監修 奥平・大村訳『中国の思想6』徳間書店1996 ほか

この通読のみならずブログ掲載作業まで滞らぬよう気をつけたい・・・。

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宇城憲治『武道の心で日常を生きる』

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年12月24日

初めて読んだときと同様、今回も思わず姿勢を正したくなりました。
著者は心道流空手道師範。UK実践塾主宰。

もっともらしい顔つきで「規範意識の向上」だの「品格ある人間育成」だのと語っておられる方々にも是非この一書をご一読いただけば、「まずは我が身を振り返らねば」と思っていただけるのではないだろうか。語られる内容は目新しいものばかり、というものでは決してなく、むしろ当り前のことが何気なく語られているのだけれども、何故か心に強く響いてくる。そんな書物です。

言葉に力がある

その力が何に由来するものなのか、私にはわかりません。しかし紛う方無き力がその文面に宿っているように私には感じられますが、その力は、印象的な一文を抜き書きしても現わすことができないとつくづく思います。したがって普段は心に残った一文の引用ばかりやっている私ですが、この一書に関しては抜粋引用は控えたいと思います。しかし敢えて一文だけ。

私が、なぜ宮本武蔵が書いた『五輪書』にエネルギーも感じるかというと、やはり武蔵本人が実践者だからです。実践していない人にも、似たような本は書けると思います。けれど、みなぎるエネルギーがぜんぜん違います。活字になっても、その差が表れます。教えてばかりで、自分が学んでいない、実践していない親や教師が多すぎます。子どもはそれに気づいています。親や先生自身がやってみせることもできないのに、口先だけで教えても子どもには響きません。親が自分の中に自信を持つ。必死になることです。そういう覚悟と姿勢は子どもに伝わります。

相手が子どもに限ったことではないですよね、おそらく。
言葉だけに頼っていて相手にどれほどのことを伝えることが出来るだろう。
空っぽな自分はそのまま捨て置いて言葉ばかりに頼って相手だけを変えようとする傲慢。

法律を作ったり変更することで何かを変えようとする思考法もまた同様だろう(たしかにそれで変わることもあるが、そういう時は大抵の場合、想定外の(副作用的)変化を伴うことが看過されがちなのだ)。法律すなわち言葉の集まりだもんね。

もっとも、言葉の力は偉大であるともいうことはできよう。が、どれほど素晴らしい言葉であっても、相手の耳に届かぬ言葉はやはり無力だ。そして聞く者をして耳を傾けてみようかと思わせるにもやはり言葉は絶対的に無力だ。だって聞く耳を持たない者は、どれほど相手が熱心に言葉を掛けたところで「はなっから聞いていない」んだもん。馬の耳に念仏。馬耳東風・・・。

「聞いてみようか」
「この人はなにを言わんとしてるのか」

そう思わせるには非言語的ななにものかが必要であり、それなくしては何も始まらない。そしてそれが出来れば目的の過半は果たされたと言うべきだろう。
「なにを語るか」ではなく「どのように語るか」
そこのところが昨今の様々な問題において置き去りにされがちな点であり、また問題の核心だと思った次第。

「(言葉にしろ人間にしろ)中身が大切なんだ」
確かにその通りだと私も思う。しかしまた同時にこの種の「正しい言葉」の持つ副作用、誤解、拡大解釈を私は恐れる。

「中身が大切!」なんて相手に向かって語りかけながら、その言葉が口に出されたそばから「中身」ではなく「形式」に”凍り”つきつつあることに自覚的な人は非常に少ないと思う(私なぞ話す前から凍りついてます)。そのような機微に通じた人の言葉に接したとき、私なら喜んで聴く。私は相手の言葉の「中身」でもなく「形式」でもない何ものかを欲して耳を傾けるだろう。

「聞く耳をもつ」
ありきたりな言葉だけれど、よくよく考えてみるととても大切なことだと改めて思う。他人の言を「聞く耳を持たない」でいて「今どきのわけえもんはなっちゃいねぇ」とのたまうお偉いさん方ばかりが目に留まる昨今、今こそ必要なのは「一億総懺悔」では!?

「んじゃおめーがやってろ、勝手に懺悔!」

ん、そうします。

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序破急 ~内田樹『私の身体は頭がいい』

Posted in 剣・禅・道 by UBSGW on 2006年12月14日

読了。

「急」は「序」よりも速い動きである必要はない。動きの質の断絶すなわち「破」を経過すれば、どんな動きも「急」なのである

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