求道blog

久しぶりのコメント

Posted in 教育 by UBSGW on 2009年2月9日

といってもこのブログへのコメントの事じゃあない。昨晩、「大学運営がビジネスライクになった本当の理由」という記事(正確にはそれに対するコメント群)を読んでいてフトコメントを投じたくなった。例の如く、いざ書き出すとコメントとしては図抜けて「長文」になるので、極端なくらい省略してコメントしてみた。いずれもう少しそのコメントを敷衍して書いてみたいと思ったが今日はやめておく。ただ、一言で言うなら、金払ったぶん、ちゃんとした(就職できるような、金が稼げるような、はたまた払ってやった学費分の)教育をしなさいよ!」というのはちょっと(大いに)違うのではないかな・・・、ということ。教えは請う(乞う)ものであって”要求”するものではないと私は考えている。学費なんざ所詮は薄謝に過ぎぬ。もしも、対価に見合うものを要求する「商い・取引」と「教育」とを同列に扱うのなら、学費はもっと高くて然るべきとさえいえるのではなかろうか。だいたい、頭(ず)の高い生徒の鼻っ柱が先生によってへし折られるところから教育は始まるのだともいえなくはない。

とはいえ当今、生徒にからかわれて激高したあげく感情的な体罰を生徒へ加える教師もいるがために、味噌糞いっしょくたにされ「強い」指導は目の敵にされ生徒の頭はますます高くなる・・・。やれやれ(一言じゃ終わらなかったか)。

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近い落日

Posted in 教育 by UBSGW on 2008年7月27日

暑い。
突き刺すような西陽がそこらじゅうに降り注いでいる。暑い。飯食う気力もないのでソバを食う。う、うまい。喰ったら、書いて、寝る。久方ぶりの更新。3週間ぶりか。

このところ何かとホットな大分県で本日39度を記録とか。教員汚職事件で「熱い」大分県にふさわしい出来事(でもないか)。暑さのほうはまだまだこれからだろうが、事件の方は新聞報道によればどうやら終息に向かっているらしい。誰もが口をつぐんで事件の拡がりは掴めず、証拠がないの立件できず、いったん採用したからにはおいそれと解雇もできず。大山鳴動鼠一匹二匹三匹四匹、以上。

こうした汚職は何も大分県に限った話でないのは多くの人が予想するところ、しかし余所は「うちではそのような事実は確認されませんでした」「みんなに聞いてみたけど誰もやってないって言ってます」、と。
盗人に「あんた盗んだ?」と聞きますかい? あほらし。

私は、今回の事件の報道に接するたびに昨年だか一昨年の「未履修問題」を思い出す。富山県あたりで発覚し、調べてみればほとんどすべての都道府県で行われていたという。さらにはその懲戒処分の決定に当たって、とある県教育委員会は「うちだけ突出できない」と厳罰をためらった由。この未履修問題に絡む懲戒処分はどの都道府県においても「だめでしょ、そんなことしちゃ、もうやっちゃだめよ」程度で終わった。まさに横並びの処分であった。どこかの校長が自発的に退職したという話も、寡聞にして聞かない。

今回の教員汚職事件に関しても、そのように「余所がやってるならウチでもひとつ」「余所でやらないことはウチでもやれません」という”せかい”に於いて、「よそが何をやろうと誰がなんと言おうと、ウチではそんなことはやりません」という都道府県があるかどうかは大いに疑わしい。つまりは余所の都道府県でも同様の問題はあるだろう、ないはずはない、というのが私の所論(の前提)である。現に、合否が公にされる前に、議員らには事前に合否を知らせていたという事実は、次から次へとあちこちから出てきていた。

「だから大分県以外でもやっている」
ということを言いたいわけではない。
私が述べんとするところは、次の2点にある。
一つは、情実人事が大分県以上に酷いところはあるのか、あるとすればそれはどこか。そしてもう一つは、情実人事のどこが悪い(悪くない)のであるか、というところにある。

新聞などの報道によれば、大分県における教員汚職の背景には競争倍率の高さがあるのだそうだ。もしそれが事実なら(おそらく事実だろう)、ポストが少ない都道府県、ポストが少ない校種、ポストが少ない教科に関して不正が行われている可能性は高い、ということになるはずである。もし文科省が、かつての「未履修問題」のときのように、あとからあとから、あそこでもここでも、行われていたという事態を避けたいのであれば、ひとつ大分県よりも人口規模の小さい都道府県、そして採用人員の少ない校種・教科に的を絞って調査してみればよい。そもそも単に競争倍率の高低よりもむしろ採用ポストの絶対数の少ないところほど、不正の存在する蓋然性は高く、そしてそれによる悪影響の度合いも大きい。たとえ大手一流人気企業の採用試験の競争倍率がどれほど高かろうとも採用枠が大きければ、情実人事によって生じるマイナス面は大勢に影響しない(飼い殺しにすればよい)。

いっぽう、公務員・教員もまた「大手一流人気企業」と言えなくはないわけだが、万一にも「飼い殺し」レベルの教員に当たってしまった生徒への影響はあまりにも大きい。一人の「飼い殺し」教員が定年までに関わるであろう人間は、少なく見積もっても一年間で40人、30年で延べ1200人。少なくはない、また、彼ら教員が生徒へ与える影響力は生半なものではない。しかも生徒は「客」ではない。客は売り手を選べるが、生徒は教員を選べない。そこのところが、ふつうの「大手一流人気企業」と公務員教師とを隔てる。ま、公立なんぞに行かず私立へ行くという選択肢はあるが。

とはいえ、こんなことは私が改めて言うまでもないことか。そもそも人事が情実で決まったとしていったい何が悪いか。私は「人事は情実」と思っている(認識している)。
ただ、公務員(教育公務員も含む)と情実人事はなじまないと考えられたからこそそれが規制されているはずである。今回の事件で明らかになったことの一つは、「やはりルールは有って無きが如し」という実態であった。マスコミのなかには、今回の大分県での事件で「いちばんの被害者は生徒だ」と言っていた(最近よく聞く常套句だ)ものがあったが、彼らマスコミの言い分は多分に感情的であるように私は思う。彼らに聞きたい。なぜ生徒が被害者だと言えるのか。どういうわけだか知らないが、彼らはそこのところをさっぱり語らない。私が思うに、なぜ今回の事件が生徒に対して与える影響甚大か(「最大の被害者」かどうかはさておき)と言えばそれは、子供たちをして「ルールがルールとして機能していない現実」及びそれを体現した人物(教師)を文字通り目の当たりにさせ、かつその人物によって「ルールを守る」ことを強いられるというやりきれない環境に投げ込むところにあると私は思う。

ところで、「ルールがルールとして機能していない現実」は、なにも今回の件に限らずとも日本中あるいは世界中どこにでもあらゆる状況に於いて見いだすことができる(誇れたことではないが)。そして大人にとって理想と現実の隔たりは水のようなものだ。それはときどき涼をもたらし、ときには人間を飲み込む。上手く使えればよい。ただ、「ルールがルールとして機能していない現実」の中で育った子供がどのような大人になるのか、あまり考えたくはない。

そんなところから私には、最大の被害者は、生徒と言うよりはむしろ日本の未来とでも言える気がしている。ただでさえ中国その他の競争相手が台頭する一方で国内経済は失速、未来への展望が開けない現代日本。これはまさに内憂外患ではなかろうか。「ジャパンアズナンバーワン」から「近い落日」「日の沈む国日本」へ。いまさらか。
いっそ日本の未来を考えるなら、教員の解雇・採用を巡る一時の混乱など小さなことだと言えなくはない。文科省はトカゲのしっぽを切り落としては如何か。むろん、「みんなでやれば怖くない」「一致団結の精神」「長いものに巻かれることの大切さ」を子供に教えてやることで新しい日本の未来が拓かれると言って言えなくはない、のか。


ここまで書いて私に分かったことはといえば、分からないことを書くと分からない文章になる、というあたりまえのこと。しかし久しぶりに書いてみて結構頭がスッキリ。もう少し頻繁に更新したい。そうしよう。

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死ぬまで勉強

Posted in 教育 by UBSGW on 2007年11月25日

いぜん山田詠美が「ぼくは勉強ができない」なんて作品を書いた。ところで今回のエントリは文学のはなしではない。教育というか先生のことについて。

学校の教員は唾棄したくなる存在・・・であった、ような気がする。かつての私にとっては。少なくとも好ましい存在ではなかった。委細は省略(ニコッ)。

しかし「勉強」や「学校」とは疎遠になった今の私の目で見ても今の先生方は大変そうだ。ごく一部の者がしでかした不祥事で肩身の狭い思いをさせられ、痛くもない腹を探られ、管理は強化され、時世に合わせて給与は一部カット。生徒の指導にビンタのひとつも張れず(体罰ダメつのはもちろんその通りだが、ね・・・相手に手の内見抜かれてたらそりゃあやりにくいわな)、これまた一部の生徒から足元を見られて生意気こかれる。やってらんねえぜ、と言いたくもなるのかもしれぬ。むろんそうした環境であるにもかかわらず、地道に励んでおられる方もおられるだろうが。

そんなところへ持ってきて教員免許に有効期限が設けられるのだそうで。

免許の有効期間は10年。幼稚園から高校までの現職教員に更新の際、大学などが開設する講習を30時間以上受けるよう義務付け(・・・)取得から10年を経過した場合、免許状は効力停止(以下略)

教員免許更新 広がる不満 県教委「技術向上の機会」(河北新報)

技術向上の機会か。そりゃたしかにそうかもしれない。研修で少しは得られるものが(ときには)あるのだろう。しかしただでさえペーパーワークに忙殺されているらしい人たちの貴重な時間を削っても割に合うほどのものが得られるのかどうかは知らぬ。わたしの経験するところでは、お仕着せの研修・やらされる勉強から得るところは少ない、極微、皆無、時間の浪費。
「そんなことはない、それはおまえのやる気の問題だ、バカモン!!」と言われればそりゃ確かにそのとおりかもしれないが。がんらい私は教師とはソリがあわなかったので、しばしばそのように叱られた。

しかしどっちもどっちだよね。10年に一回の研修で何かが得られるというのもまあその通り、そしてやる気次第だってのもまあその通り。決してどちらも嘘ではない。正論ではある(しょうもないレベルの正論だけど)。したがって研修が役に立つ立たないなんて次元で論議してもまあ始まらない(と思っている)。むしろ気になるのは、そのような「研修の機会」、「技術向上」の機会を作ってお仕着せてやらねば今の先生たちが勉強しないのか、ということ。そうでないと思いたいところだが、これまた他の職種と同様に阿呆はどこにでもいる。一部の非行をあげつらってあまり意味のあることとは思えぬ(それがまかり通っている世相は見るも無残)。もし仮に自分なりの研鑽を積みたいと常々考えて居られる先生がおられるとすれば、その人にとってお仕着せの研修は無益であるどころがむしろ有害ではないのだろうか。ただでさえつまらないペーパーワークと会議に追われているところへさらに研修。やる気はひょっとすると無限かもしれないが時間は有限ですよ。

つまりお仕着せ研修は「勉強しなさい」と言われなければなにもしないボンクラ学生ならぬボンクラ先生にとってのみ”有益”ということになるのではないか(そんなひとがどれほどたくさんおられるのか私は知らない)。もしそうだとすれば、今の教育における大きな問題の一つは、そのような、強いられなければ己れを磨こうとしない人物が教壇の上から生徒に向かって「君たち、勉強しないか!!」と、自分を棚上げして能書きを垂れているところにあるということになろう。なぜそれが問題なのかといえば、そのような先生を日頃目前にしている生徒たちが勉学に対する意欲をかきたてられることはまずないであろうからだ。ちなみにその論拠はここにある。すなわち私自身(笑)。

つまりはこの研修、能書きはご立派だけど中身はちょっとどうかね、ということをふと思ったのでありました。10年に一度30時間ぽっちの研修で先生ヅラしてられんのなら悪いことじゃないのかもしれんが。
しかし教員の質向上をうたう文科省はどうして教員の雇用流動化を進めないのであろうか。自己研鑚の能力すらない教員なんか解雇して新しいのを入れたら良かろうに。それもだめならまた雇用。その循環が水を澄んだものにするだろう。澱んだ水は腐るのだ。公務員教師の雇用流動化策の方がちっぽけな研修よりよほど効果的だと思うのだが、
しかしこれは実現しまい。というのも文科省の役人も公務員だから。同病相憐れむ。

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