求道blog

オープン・ソサエティとか全体主義とかの覚え書き

Posted in 歴史カテゴリ by UBSGW on 2010年2月21日

ジョージ・ソロスが”The Age of Fallibility”の中で使っていた”feel-good society”という言葉について昨晩ひとしきり考えていたが、ここに書くまでには至らず、今日もちょっと書けそうにない。私が理解したところを端的に言ってしまえば、ソロスはこの言葉に、「自分さえよければ」といったような多少なりとも”主体的・能動的”な意味あいよりも、むしろ口当たりの良いものばかりを選好する(つまり消費者至上主義:consumerismに慣れきった)有権者の非主体的な在り方への批判の色を載せ、さらには、そうした受動的な有権者(それを群集と言い換えてもいいだろう)を十重二十重に取り巻くマスメディア、ひいてはそのような有権者によって選ばれた政権(ブッシュJr.政権)の政策に批判的な目を向けている(この本は2006年、ブッシュJr.再選後に執筆されている)。

ただしそれはこの本の副次的なテーマの一つに過ぎず、そもそもこの本の(そしてひょっとするとソロスの言論活動の)最も大きなテーマとしてソロスは「オープン・ソサエティ」という概念を何度も何度も手を変え品を変えながら書き綴っている。それも単なる市場開放だとか移民の受け入れだとかいう(相対的に)些末な話としてではなく、それらの淵源となるはずの「人間の思考態度そのもの」を起点として論(というよりはエッセイ)を展開してゆく。外界に対して「開かれた思考」と「閉じた思考」。「開かれた社会」と「閉じた社会」。

むろんそれ自体はなんら新しい概念ではない。でもそれは人が不断に配慮せねば保たれ得ぬものであることは確かであるように私は思う。ところで、なぜ彼ソロスはそれほどまでに「開かれた社会」「開かれた精神」に拘るのか。おそらくその理由の一つは、(ハンガリー出身である)彼がナチスとソ連の「全体主義」をまさしく身を以て体験したところにあると私は考える。

ここで私の話は一気に飛躍する(だから覚え書きなのです)。

ファシズム・全体主義の時代を生き抜いてきた人たちは(ソロスに限らず)、ごく近いうちに私たちの身近なところから消えてゆく。既に歴史的には(ある程度)相対化されたと言って良かろう二十世紀型のファシズムあるいは全体主義を、当時の生活の中で否応なく主体的に(それぞれの仕方で)経験させられた人たちが時の流れと共に姿を消したのち、現代人たちは新たな「ファシズムな何か・全体主義な何か」をそれとして確かに認識することができるのだろうか、あるいは(もし既にその萌芽でもが存在しているとすると)現にそれを認識できているのだろうか。

と、そのようなことを考えながら結局読み物としてはまだまとまらなかったので、とりあえずつまらないのを承知の上でここに書いてみた。いずれ改めて書く(書きたい)。
ではまた。

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(2010/02/21一部改稿:主にテニヲハを修正)

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読書日記(2010年2月13日)

Posted in 書籍一般 by UBSGW on 2010年2月13日

ちょっと放っておいたらもう一週間も経ってしまった(このブログのことです)。
2006年に書き始めたこのブログもようよう満四歳となりました。ここ1,2年は更新も間遠になりがちなので、今年こそはと思いながら1月は久しぶりに10回以上更新してみましたが、月が変わって息切れした模様・・・。ここ1週間ばかりは読書日和(お天気があんまりよろしくないということです)が続いたこともあって読む方に専心しておりました。村上春樹の1Q84は続巻がでるとかで、文庫化されるのは当分先のようなのでそれまで気長に待つこととして、今は本棚から「つん読本」を取り出してきては暇を見つけて読んでおります。何冊か読んだ中で特に面白かった(というかまだ読みかけなので「面白い」とすべきか)のはジョージ・ソロスの『世界秩序の崩壊 〜「自分さえよければ社会」への警鐘』、2006年刊行の本なのでほんと「今さら・・・」という感じもありましょうが今読んでも非常に面白いですよ、ハイ。まだ読み終えていないので断言は出来ないですが、邦訳タイトルにある「自分さえよければ社会」というのは、もしそれが原著の文中にある”feel-good society“を訳したものなのだとするとどうも”違うよね”という感じを受けます。いずれにせよ読み終えてからまた書くことにします。
ではまた近いうちに。
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2011/02/02追記
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売り文句に見る世相

Posted in 雑記 by UBSGW on 2009年1月12日

先日、ジョージ・ソロスの『ソロスは警告する』(原題:The New Paradigm for Financial Markets)に巻かれていた帯文その他にうんざりしたことをこのブログに書いた。いったい何にうんざりしたのか一言で示せば、それは著者の視座と訳者・解説者の視座の隔たり大きさに一人の「ニッポンジン」として、いささか幻滅を覚えたからだ。この本の中で著者は、彼の経験の中からなにがしか本質的なものをくみ取ろうと格闘している。彼は、おそらく(その当否はさておき)彼の人生におけるさまざまな主観的体験・客観的現象のうちから本質的なものを(彼なりに)読み取ろうとする姿勢を一貫して持ち続けているようだ。それに引き比べて、日本人によってこの本に付された解説その他はどうか。私はここで、その余りの不毛さに一驚したことを告白する。やれカリスマだ、ベストセラーだ、はては市場経済への過度の依存が・・・云々と、テレビだか週刊誌だか3chだかで見るような、思いつきの、ありふれた、うわっつらばかりの文句ばかりがズラズラと並べ立てられている(その一部がamazonにも載っている)。私としてはそうしたものに別に文句を付けるつもりはない。それはそれ、これはこれとして当意即妙・適材適所をよろこぶものであるがしかし、よりによって自称「挫折した哲学者」の本にその手の解説・売り文句はあんまりだろうと思ったのであった。しかしこれもまたそれはそれこれはこれで、ま、べつに構わないと言えば構わない。ただ、そのようなものを食傷するほどに見聞きしつつあり、正直なところうんざりしかけている。だいたい何だね、最近の帯文の無茶苦茶なこと、目に余る。そういえば、先日読んだ福田恆存の文庫版『人間・この劇的なるもの』の帯文には太文字で”恋愛の書!”とあったことを思い出す。本屋の店先であの福田がいつそんな本書いたのカネ?とちらりと思ったが(帯文にある恋だの愛だのの安っぽい売り文句に惹かれて本を買うような人にとって福田の文はまず間違いなく「ウザい」「ダサい」「クドい」と思う)、何のことはなかった、巻末解説のさらに後に付け加えられた一評論家の一文の末尾に「だからこそ、『人間・この劇的なるもの』は、若者たちにますます必要な人生の書、いや恋愛の書だと思う」とあったところから来たらしい。それもこの一文は、この評論家氏の(福田の著作に関する)きわめて個人的な思い出ばなしなのであって、福田の書いたものとのつながりは無きに等しい(むろんそれはそれで全然問題はない)。問題は(というか鼻につくのは)、そうした枝葉の言葉尻(同義反復だな)をつかまえてさもこの福田の本が”恋愛の書”だと見せかける腐れ根性・・・、もとい逞しい商魂と、そのような姑息な真似をしなければこの本が売れない(のかもしれない)現代日本の世相というか、ま、何かしら腐臭らしきものを嗅がされる気分になったのだった。すんません、小生、箸が転んでも腹が立つ奴ですねん。すまんの。それにしたって、「大の男」に「ミニスカート」はかせるような真似はやめようぜ。三文小説じゃないんだし。などと書く必要はあまりないか。つまらない帯なんぞゴミ箱に棄てればそれですむこと。いやあ、分かっちゃいるけどね。あ、日本の本、読まなきゃ良いのか。読むなら古典、買うなら洋書、ほんとそれでいいのか?
などと、くどくど書いてみたが、助走だけで終わってしまった感なきにしもあらず。

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